テーマ:「金田一耕助の解」に寄せて【2】

(1)からの続きです。

 繰り返しになりますが、灰色文字が金田一さんの「金田一耕助の解」のページに掲載されている内容で、紫色文字が古嶋一平の文です。

 母親がおなかの中の赤ちゃんに語りかけている。

 この視点は新鮮だ。その可能性を歌詞の始まりから検証してみる。

 『空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと』

【文字通り、娘さんが天空に手を伸ばしていると言う直球に受け取りました。蛇足ですが、「さつき(五月)ちゃん」とか「メイ」ちゃんと言う女の子ってのもありかな、と。まぁ、これは本当に蛇足ですね。『手を伸ばす』と言うのは、現状まだ手に入れられていないものを得ようとしているさま。それは『果てない夢』のことかもしれません。「果てない夢」の中には、その「手を伸ばしている君」自身がまだわかっていないものも含んでいるのかもしれません。「つぼみに手を伸ばしたとしてもまだ届かない」状態でもあるでしょう。】

 なるほど、これは母親が『五月』に妊娠した(あるいは妊娠の事実が判明した)ことをよく表現している。

 ここでそれは、ちょうど土の中で発芽した植物の種が、地面とその上の『空を押し上げ』、芽を外の世界へと伸ばし始めた様子に例えられている。その姿は小さな子供が空に向かって『手を伸ばし』ているかのように見える。

 『どうか来てほしい 水際まで来てほしい』

 これは母親の願いである。

【前述のように、私は父親の願いと解釈しました。】

 水の中とは母親のおなかの羊水の中であったのだ。

 それは死後の世界ではないかとの推測からこの解釈を進めてきたのだが、この結論に至ったのは怪我の功名だ。少なくともこの時点では母親は赤ちゃんに『水際まで来てほしい』すなわち、外の世界に生まれて来てほしいと願っていた。

【繰り返しますが、私の解釈では水際のあの世側にいるのは父親、現世に居るのが娘です。】

 『つぼみをあげよう 庭のハナミズキ』

 『つぼみ』とは将来の可能性のことだ。『庭のハナミズキ』を眺めながら、生まれてきた赤ちゃんに母親はすばらしい将来をあげたいと思っていたのだ。

【私の解釈では、父が娘に「ミズキの葉のところに来てくれたら、僕がつぼみをあげる」と告げているものです。元々直球ではないかと。】

 ここまで驚くほどぴったりの解釈ができた。

 続いてサビの部分が始まる。しかしサビというのは後でまた何度か繰り返されるもので、最後にその意味がわかるというパターンが多い。

 先に二番の歌詞のほうから考えてみよう。

 『夏は暑すぎて 僕から気持ちは重すぎて』

 やはりどう考えても母親が自分を『僕』と呼ぶのはおかしい。

【母親ではなく、父親が、WTCの中で熱望した「生き延びたい」「妻と子供の元に返りたいと言う想いです。そして、恐らくその場に居た多くの人たちが家族の元に、愛する人の元に返りたい、あるいは生き延びたい、と熱望していたのでしょう。」】

 しかし、『僕』と呼ぶ人物は確かに存在する。それは自分の赤ちゃんである。

 「僕」「僕ちゃん」といった具合だ。『夏』すなわち八月、妊娠(あるいは妊娠が判明してから)三ヶ月目、猛『暑』のような試練が生じ、母親は産まれてきたいという『僕から』の『気持ち』を受け止めるのは荷が『重すぎる』と感じるようになる。

 『一緒に渡るには きっと船が沈んじゃう どうぞゆきなさい お先にゆきなさい』

 もはや赤ちゃんを産み、『一緒に』世間の荒波を『渡って』ゆくことはできないと判断した母親は辛い決断をする。赤ちゃんを自分より『先に逝かせる』という決断を。

【この部分については、既に上で詳しく触れましたので再度の言及は割愛します。】

 次に二度目のサビに入る。最初のサビとは歌詞が異なるが、ここもとばして三番の歌詞を見てゆく。

 『ひらり蝶々を 追いかけて白い帆を揚げて』

 『蝶々』は天使の羽をイメージさせる。それを『追いかけ』、旅立って行く先は天国である。

【蝶々を追いかけている娘さんの姿で、「白い帆を揚げて」と言うのは、「沈んで行く船」とは対照的な「沈まぬ船」に乗っている娘が、現世で「果てない夢」をおっかける真っ最中(あるいはまだそこにも辿りついていない?)なのだと思います。また、私自身が、そして自分の子供達も行った風景を重ねれば、「白い帆を揚げて」と言うのは蝶々を白い捕虫網(横から見れば帆も網も三角に見えます)を持って追っかけている姿がありありと浮びます。正直、非常に「生々しい」あるいは「活き活きとした」情景であり、私がこの歌で「今歌いかけている対象」が「亡くなっている」どころか「生まれてすら居ない」と言う解釈が出てくるのに大きな違和感を覚える部分の一つです。】

 『母の日になれば ミズキの葉、贈ってください』

 葉を贈るというのは変だと感じていたが、これで意味がわかる。

 すなわち、五月の『母の日』の頃、『ミズキの葉』が芽吹くとき母はそれを天国の子供からの『贈り物』と見なし、思い出すということだ。

【ミズキの葉と母の日に対する解釈は、既に上で詳しく触れましたので言及は割愛します。逆にお尋ねしたいのは、なぜここで「花ではなくて葉を贈る」というのが、「これで意味がわかる」のでしょうか?時節的に、花が咲いていておかしくない時期ですよね。中絶した我が子だから贈ってもらうのが「生まれてこようとしていたけど生まれなかった=つぼみにも花にもなれずに葉で止まったというのがぴったり当てはまる」と言う解釈なんでしょうか?もしそうであるというなら、贈り物と言うには余りに哀しいと思えてしまいます。】

 何ともぴったり当てはまるではないか。これですべての謎は解けた…のだろうか。

(3)へ続きます。