ブラとよはし その3、吉田城でブラトヨハシ | みののかみのブログ アメブロ版

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史跡および日帰り天然温泉の訪問記が殆どと成り候

13時開始の
「吉田城でブラトヨハシ」
参加する前に、

時間が多少出来たため、

豊橋市美術博物館の展示室で
企画展『遺跡でブラトヨハシ』を観た。
古代から江戸時代までの
豊橋市内の遺跡について、
出土品の展示やパネルでの説明だけでなく、
実際に文化財サポーターが訪ね歩いた
「行ってみたらこんな感じでした。」
という報告も、展示室に一緒に並んでいた。
 
展示を観終えると、美術博物館の正面にて
「吉田城でブラトヨハシ」の受付が行われていて、
ここでパンフレットをいくつか受け取った。
豊橋駅前から美術博物館へ移動した際に、
駅前にある豊橋市内最大の書店の
「精文館書店本店」に立ち寄り、
今回のイベントで
パンフレットやレジュメにメモ書きが出来るよう
ハードクリアファイルを購入してきたが、
イベントの受付でもらったパンフレットは
すべてそのファイルに入れられた。
イベントで動き回っていた間に、
手に持っていたパンフレットを
ポロポロ落としていた参加者は多く、
クリアファイルは、
こういうイベントでの必需品なのだと実感した。
 
午後1時に始まった「吉田城でブラトヨハシ」は、
100人近い参加者が集まり、
文化財サポーター10人ほどと
豊橋市教育委員会の文化財担当者と一緒に
美術博物館から市内をあちこち見て回った。🚶
最初に美術博物館の企画展を見学したが、
前夜にNHKの番組『ブラタモリ』で
兵庫県の姫路城を訪ね歩く放送を観ていて、📺❇️
姫路城を現代見られる姿に大改造した
池田輝政(姫路異動後に照政から輝政に改名)が
姫路に移る前は三河吉田城主で、
吉田城の改修普請を行っていたことから、
教育委員会の文化財担当者の方に、
池田照政の吉田城普請が、姫路城の大改造に
練習台のような経験になったのか聞いてみた。
吉田城と姫路城では規模が違うため、
はっきりとつながりがあるとは言えないとの返答で、
吉田城と姫路城の関連性は確認出来なかったが、
前夜に池田輝政の仕事を『ブラタモリ』で観て、
翌日も今度は豊橋で
同じ池田輝(照)政の仕事を見られるのは、
タイミング的に良かったと思った。
 
「吉田城でブラトヨハシ」は、
美術博物館に近い吉田城三の丸土塁の前へ移動して、
明治時代に陸軍連隊が吉田城に置かれたことで、
三の丸の土塁が目隠しの目的も出来て遺され、
吉田城の広い範囲が市街化しなかったことが
説明された。
その後、「吉田城でブラトヨハシ」は、
三の丸土塁のすぐ南にある
「聖ハリストス教会」の前へ出て、⛪
教会について説明があり
(大日本帝国陸軍連隊のすぐ前に、
背の高いキリスト教会の尖塔が
よく建っていたなと思った。)、
国道1号線を横断して、
城下町エリアの旧東海道に移動した。

吉田城の城下町には、
江戸時代の一級幹線国道の東海道が東西に延び、
町人町は東海道の吉田宿と一体になっていた。
私は5年半前に旧東海道を徒歩で旅していて、
吉田宿も通過していて、
ブログ👇
東海道の吉田宿の道筋は初めてではなかったが、
文化財サポーターの説明では、
城下町の中でジグザグに折れ曲がる
「曲尺手(かねんて)」の話などがあった。 

しかし、スピーカーの調子が悪いのか、📢
声がこもって聞き取れない部分もあった。
 
その後、旧東海道からさらに南へ歩き、🚶
古刹寺院の「龍拈寺」で、
寺院の歴史や
吉田城との関わりについての説明があった。
龍拈寺は、吉田城(今橋城)を築いた
牧野氏の菩提寺として始まり、
今橋城を築きながら
二連木城の戸田氏などとの戦いで戦死した
牧野古白の墓も墓地の一角にある。
龍拈寺は、
江戸時代になっても
吉田城下最大の3ヶ寺の1つとして繁栄したが、
第二次大戦の豊橋空襲で
山門を残してすべて焼失し、
現在境内に建っている寺院建物は
すべて戦後の再建。🏗️
唯一残った山門は、
豊橋市の指定有形文化財となっている。
 
龍拈寺の前で
文化財サポーターによる詳細な説明があった後、
吉田城大手門の跡へ移動した。 
龍拈寺での説明は2回に分けて行われたが、
1度目の説明をおこなった文化財サポーターが、
説明を聞いた参加者を率いて早足で移動し、
2度目の説明を聞いた参加者と
100m以上離れてしまった。
私は2度目の説明を聞いていて、
どんどん離れていく参加者集団が気になり、
急いで追いついたが、
そのあたりの参加者への配慮が必要だと思った。
城下町を歩いて大手門跡に着き、

大手門についての文化財サポーターの説明中に
後続集団は追い付き、
再び一まとまりになって、
国道1号線の歩道橋へ進み、歩道橋上で、
昭和6年(1931年)竣工の
豊橋市公会堂について説明があった。
 
そして現在は「豊橋公園」となっている 
吉田城内へ移動した。🚶
二の丸門の跡で櫓跡の説明があり、
さらに本丸の入口で
石垣についての説明もあり、
石垣に積み上げられた石には
担当者の刻印が見られるとの話があった。
一行は本丸に入り、
本丸には将軍宿泊用の御殿が建っていたことと
昭和29年(1954年)再建の復興鉄櫓は
池田照政が築いた石垣の上に建っていることの
説明があり、
本丸の先の豊川本流の河川敷の方へ下りた。
吉田城は、豊川本流を背にして、
半円の輪郭式に三の丸まで連なる縄張りで、
一番背後の本丸が豊川本流に面している。
戦国時代に牧野氏が築城した際に、
近くの二連木城が第一の敵と考えられ、
南東側に大手口が設けられてから
縄張りの基本構造が江戸時代まで
大きく変えられなかったためでもあるが、
池田照政時代から石垣が築かれた。
本丸が豊川本流に面した構造のため、
鉄櫓も石垣の土台ごと豊川本流に向いている。
本丸石垣を
豊川本流の河川敷の遊歩道から眺めたら、
少し下流方向へ移動して、
水門の跡を確認した。
吉田城が豊川本流に直接向いているだけでなく
吉田城は船の移動もあるという、
城郭が豊川本流と関係していた証拠だった。
 
この後、本丸の下を上流方向へ戻り、
本丸と二の丸の間の堀を見て、
二の丸の北の
「舊藩祖 豐城神社」の石碑のあたりへ移動する。
このあたりに、
もともとの今橋城の中心があったとのこと。
確かに、
豊川本流の河畔から
城内へ戻った場所の前では  
朝倉川が豊川本流に合流していた。
今橋城(吉田城)は、
年月が経つごとに縄張りが大きくなって、
戦国時代の今橋城は
すっぽりと近世吉田城に取り込まれていた。
 
一行は、残された空堀と土塁の遺構も確認し、
美術博物館の正面へ戻って、
イベントは終了した。
クルマで来ていた人には
豊橋公園駐車場の駐車無料券が配られたが、
私は電車で来ていたので、
豊橋公園から退出した。
 
市役所前電停前まで歩いたが、
帰り道で
「ヤマサのちくわ」の本店に立ち寄ろうと思い、
市内線の路面電車に乗らず、
豊橋駅まで歩くことにした。🚶
国道1号線がL字に曲がる
西八町交差点の歩道橋へ上ろうとしたとき、
豊橋鉄道市内線で一番新しい
T1000形電車がやって来た。
市役所前電停で3~4分待っていれば
この電車に乗車出来たのだが、
歩道橋から西八町交差点のカーブを進む姿を
じっくり見られただけで良かった。
 
 
西八町交差点の歩道橋から南へ進み、🚶
「ヤマサのちくわ」本店へ行き、
土産にちくわを買って行った。
正月のおせち料理に間に合えばと思ったが、
ちくわも伊達巻も賞味期限が1週間程度で、 
帰宅後すぐ食べる分しか買えなかった。
 
その後、
「ヤマサのちくわ」本店のすぐ近くのスーパーで
豊橋ならではの食品が無いか物色し、
ゆっくりと小一時間かけて豊橋駅へ移動した。🚶
 
豊橋市内でたくさん歩いたので、🚶
帰りの電車は、名鉄岐阜行き快速特急に、
座席指定券(μチケット)を購入して乗車した。🎟️
一般座席よりゆったりとした
リクライニング付きの指定座席で
身体を休めて帰路についた。🚆