今日の日経ビジネスへ掲載されていた記事のタイトルだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130726/251577/
結論から言えば、「それは使い方の問題だろう」と思っているので僕の結論は異なるが、面白い記事なので読んでみて欲しい。
但し、会員制のサイトなので全ての人には読めない可能性もあるので、読めない人の為に、わかりやすく要旨を紹介する。
本文が読める人は要約は飛ばしてもらえば良い。
本文の本意を正しく伝える為少々要約が長い。
以下要約)
◯技術の進化は思考プロセスにも影響を与えている
ニーチェの文体がタイプライターを利用する事で変化があった様に脳には「可塑性」があり状況に応じで機能を変化させる。
現代のテクノロジーの発達、特にインターネットが人間にどの様な影響を与えるかと言う点でみると
◯情報を探す能力や膨大な量の情報を要約する能力は高くなった
つまり、Google検索を駆使して情報を探し出し、それをまとめて、多くの人が「ちょっと賢そうなこと」を言えるようになった。
◯マルチタスキングも得意になった
Gmailでメールのやりとりをし、ツイッターで流れる情報を見ながら、資料を作るといったことが簡単にできるようになった。
一方デメリットとして
◯深く集中して何かを考える能力が落ちている
会議中に携帯のチェックをしたり、仕事中にメール、SNSでのコメントチェックをするなど注意散漫になり、落ち着いて1つのことをじっくりと考えることができなくなっている。
文脈のある長い文章を読み込む力も落ちている。
◯知識をレバレッジする能力が落ちている
「知識をレバレッジする」と言うのは、いま手元にある知識を元に、より高次元の結論を導き出す事だが、その能力が落ちている。
知的なアウトプットの質は、知識量×思考力であり、知識と思考力の両方がバランス良く揃っている必要がある。
知識だけがあってもまとめられていなければアウトプットはごちゃごちゃした資料となり、いくら思考力があっても、知識に依拠しないアウトプットは単なる自説の開陳に過ぎない。
では、どうすれば思考力を維持することができるのだろう?
◯インターネットを使わない日を設けること
近年コンピューターのデータ処理能力の向上と共にネット上のサービスは進化を遂げ、私たちの時間を奪い取り、結果としてより注意散漫にしている。
休日などはPCも携帯も持たず、ノートとペンだけを持って外出するというのも1つ。
◯長い文章を丁寧に書くこと
字数にして3,000字以上の文章を丁寧に書く機会をつくる。
字数が多いだけでは無く、単語ひとつ、接続詞ひとつにもこだわり一定時間をかけて文章を書く。
一定の長さの文章を丁寧に書くということは、必然的に自分の考えを深めて整理するという作業を伴う。
◯すぐに検索しないこと
疑問が浮かんだときに、すぐに検索せず自分で何回か答えを考え、それから検索をする。
すぐに疑問に答える仕組みが身近にあると、自分の力で考える力が失われる。
◯現場に行くこと
インターネットの情報だけに頼らず、現場で生の情報に触れる。
雰囲気、温度、匂いなどメディアでは伝わらない大切な情報が現場にある。
そういった現場に身を置いて考えることで、思考はより一段深くなる。
活版印刷が誕生した当時、人々に与えたインパクトは、今日のインターネットと同様だった。
その結果、一部の人だけのものだった本が至る所に出回るようになり、世に本が溢れることに対して「ショウペンハウエル」は次のような警鐘を発していた
『読書は、他人にものを考えてもらうことである。
本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。
習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。
だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。
自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。
だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。
そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。
・・・
熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。
食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。
それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。
「読書について 他二篇(改版)」、岩波書店、1983、127ページ』
産業革命は、人間の肉体を代替していったが、その結果、交通手段の発達は私たちの脚を弱くし、危機感を抱いた人々は走る習慣をもち、自分の身体を意識的に鍛えるようになった。
情報革命は人間の脳を代替し、この革命は、印刷技術の進歩とは比べ物にならないほどに、私たちの思考力を奪っていくのかもしれない。
数十年前に先進国に住む人びとが身体を意図的に鍛える必要に直面したように、今後は思考力を意図的に鍛える必要が生じているのではないだろうか。
先に4つの例を挙げたが、日常の10%ほどでもよいので、メディアに頼らずに自分で考える習慣をつけてみてはどうだろう
以上要約)
ここからは僕の考えだ。
記事には大切なことが多く含まれているのだが、結論が浅いのは非常に残念だ。
◯印は僕が付けたこの文章のポイントだが
インターネットが思考プロセスに与えた影響の以下の4つに関しては、現代の仕事の進め方や過密な労働状況も影響している為、全てを関連付けるのは無理があるが影響は大きいだろう。
◯情報を探す能力や膨大な量の情報を要約する能力は高くなった
◯マルチタスキングも得意になった
◯深く集中して何かを考える能力が落ちている
◯知識をレバレッジする能力が落ちている
これに対する思考力を向上させる方法として、「インターネットを使わない日を設けること」以外は3つとも目新しくは無いが至極妥当だと思える。
◯長い文章を丁寧に書くこと
◯すぐに検索しないこと
◯現場に行くこと
最初に結論を書いたが、インターネットにしてもスマートフォンにしても使い方次第だと思っている。
物事の本質を把握して、それに応じた使い方をすれば良いわけで、その点、引用されているショーペンハウエルは素晴らしい。
『読書は、他人にものを考えてもらうことである。』と一言でその本質を表現している。
そして「本」を否定している訳では無く、「本」を読むことを有意義とする為には
『熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。
食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。
それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をお
ろすこともなく、多くは失われてしまう。』
と書いてある。
本もそうだが、インターネットもスマートフォンも遠ざける必要はないと思っている。
文化というのは新しい技術を使いこなす事でもある。
全く関連が無い様に思われる音楽にしても技術の進歩=楽器の発達で発展し、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ビートルズと各時代でそれを活かす素晴らしい作曲家や演奏家が産まれてきている。
「技術に使われる」ことは愚かなことだが「使われない為に使わない」と言う姿勢はもっと愚かだ。
例えば、長い文章を丁寧に書くことは紙と鉛筆よりもパソコンとキーボードの方が遥かに楽であり、もしスマートフォンで入力するならフリック入力が最も速いだろうし逆に言えばキーボードが無い事がスマートフォンの欠点でもある。
その為、最初にiPhoneと出会った時に僕はフリック入力を覚えた(この話はiPhone3GSと出会ってこのブログを開始した当初に書いた)。
この欠点を克服することでより便利な物となると判断したからだ。
これにより長い文章も楽に入力できるようになり、それまでのガラケーでは苦痛でしか無かったメールの返信もスマートフォンで楽に出来る様になったのは画期的だった。
又、スマートフォンを使いこなすことで、ブログやFacebookへ手軽に記事をアップ出来るようになり、少し長い文章はパソコンを使って書くようになると、それまでよりもあらゆる事を良く考える様になった。
以前は文字を書くことそのものが面倒だったので、日記すら書いてなかったが「ライフログ」も残せるようになった。
これらは、このブログを始めた時期から数えてここ数年くらいだ。
又、僕は分からない事があればすぐに検索をするが、検索と言うのはやはり技術が必要だ。
キーワードの内容や順番によって求める答えを調べる速さも精度も変る。
その為、無闇に検索キーワードを入れるより、一瞬考える方が遥かに結果は早く、出てきた答えの精度も高い。
それでも、インターネット上の記事は精度が低いと言う認識を持っているので、信頼出来るものかどうかと言う事をチェックする為に複数の情報を見るようにしている。
複数の情報を比較して自分の中で判断する為には、基本的な自分自身のスタンスも必要だろう。
例えば「LINE」を持て囃すマスコミの情報が全て信頼出来るのか?と言えば答えはノーだ。
彼らは都合が悪いことは書かない。
「LINE」が持つ膨大な個人情報に群がり甘い汁を吸おうとしている大企業はマスコミにとってはスポンサーであり、彼らの意図と逆の事は出来ないからだ。
と言うスタンスがあれば、「LINE」に関する反対意見やネガティブ情報も探す訳で、もしそう言う事を考えて無ければそのメリットだけを調べて、マスコミ同様「LINE」は良いよ~と吹聴するだろう。
ここでも考える必要があり、場合によれば新たな疑問が生まれる事もあるだろう。
ただ、最終的に「現場へ行くこと」は同感だ。
もちろん、これは「情報」の現場と言う点でもそうだが、例えば社会情勢、政治、経済と言う情報はネットではなくリアルで書かれている「新聞」で把握することが多い。
ネットの情報は断片的な物が多く、新聞の場合は補足記事、関連記事なども同じ紙面に掲載されている事があり、ネットよりも手軽に詳細を把握することが出来るからだ。
もう1つの例だが、自分が楽器を弾いているので、そちらで例をあげれば、近年、動画サイトの情報量が豊富となり、著名な演奏家の演奏を見ることが可能となったが、あくまでも動画は動画であり、ライブに敵うものはない。
音も当然生の音では無いが、こういう音はこうやって出す。と言う演奏家の呼吸まで含めたところでの臨場感は動画サイトでは得られない。
動画を見ただけで本物を見た(聞いた)様な錯覚に陥りやすいのはインターネットや周辺機器の一番危険なところだ。
しかし、実際に演奏の「現場」へ行って、スマホで手軽にライフログを残す。もちろん隠し撮りなどは論外だが、帰りの電車でその日の演奏会の印象や技術的に気がついた事をメモする。と併用する事でより印象深いものへと繋がるだろう。
ちなみに、楽器の演奏と言うのは思考力を向上させる為に非常に良いと考えている。
当然、そこにインターネットやスマートフォンが介在する余地は無く、楽譜と言う記号から演奏を想像する作業には素晴らしい思考力が必要だ。
口下手、文章下手、悪声、音痴でも楽器は弾ける。
そう言う意味では「思考力向上」に「楽器の演奏をする」と言うのを上げたいが、ところが、これはこれで「自分で考えずに先生に言われた通りの事しか出来ない」と言うのが居るので困ったものだ(笑)
ちなみに、この記事で要約部分が約2000文字、僕の考えの部分が約2500文字で合計4000文字と言うところ。
ちょうど著者の言う3,000文字以上の文章という事だが、意外に長い。
Twitterの様な100文字程度の文章ではなく、ブログやFacebookで多少なりとも自分の考えを書く方が余程思考力は上がるだろう。
この長い記事を最後まで読んでくれた方がいれば感謝するし、かく言う自分自身、これだけ長い記事は自分の為に書いている。