熊本石橋ツアー2  「肥後の石工」三五郎の「雄亀滝橋」 | iPhone De Blog

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今朝の新聞のコラム欄にこんな記事があった


日本橋(東京都中央区)の架橋100周年を記念したイベントが東日本大震災の影響で中止になった。

100年にあたる4月3日までの3日間、予定されていた


初代の日本橋は江戸幕府が開かれて間もなく木造でお目見えした。にぎわう様子は浮世絵の風景画などでもおなじみ。明治維新後に石造に生まれ変わり、1911(明治44)年に現在の姿になった


石造の日本橋の歴史は九州の人を抜きには語れない。

「肥後の石工」集団が携わったからだ。アーチ式造りに関して独自の知識と技術を持っていた。

当時の日本では抜きんでた職能集団だった


彼らの開祖は江戸後期の藤原林七と伝えられる。

長崎奉行所の下級武士だった藤原は、石で組んだ眼鏡橋を見て思った。なぜ石は落ちないのか。どうやれば弧を描くように組めるのか。アーチ橋の基礎を勉強したくて外国人に接触したことが鎖国下の禁に触れて…


長崎を追われ、肥後の種山村、現在の熊本県八代市東陽町まで逃れた。独学でアーチ技術を研究した。地元民のために小さな石橋を架けたりした。技術を継いだ弟子や子孫が各地で石橋を築き、名声は明治政府にも伝わった


彼らのハイテク技術が可能にした石橋は、古里熊本を中心に九州各地に数多く残されている。東京では皇居の旧二重橋や神田橋なども手がけたといわれる。一昔前まで東京でそのことを知る人はほとんどいなかった。今はどうだろう。


=2011/03/29付 西日本新聞朝刊=


偶然だが、僕の見た石橋をどんな人達が作ったのかと思っていたが非常に参考になった。


ここにある様に、僕が見て回った石橋は「肥後の石工」と呼ばれる人達の手によって作られたものだ。


この「肥後の石工」というのは、そのまま児童文学のタイトルにもなっている(今西祐行作)ので読んだことがある人もいるかもしれない。


この肥後の種山村から始まった「肥後の石工=種山石工」の始祖がこの藤原林七と言う人物らしく、長崎でオランダ人から石橋の建造技術の基礎となる「円周率」の計算方法を学んだ為に長崎から逃れることとなった様だ。


そして、その義理の息子「岩永三五郎」というのが「肥後の石工」の主人公というわけだ。


そして、この三五郎が25歳(文化11年=1814年)から6年かけて完成させた水路橋(中に水が通っている)」が、この「雄亀滝橋(おけだけばし)」だ。


橋は国道から随分入り込んだ山奥で、途中、本当にこんな山奥にそんな物があるのか?もしかすると行き過ぎた?と思う程奥の方にひっそりとあった。


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この橋へ辿りつくまで数百メートル程歩くが、それに沿って用水路水があった。
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水路橋と言う事なので、この橋の中を水が通っていて、まだ現役で使われている様だ。
橋の上は苔むしている。

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その後、この橋と、先に紹介した「霊台橋」が手本となり、一族や弟子達の手で40年近く後に、有名な「通潤橋」への建設へ応用された。

下は「通潤橋」※ここは以前見たことがあるので、今回は近くまで行かなかった。

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自然の力は偉大だ。

地震で建物が崩れ落ち、津波であっと言う間に全ての物が流れていき、千葉の浦安は、目には見えないが液状化で広範囲に建物の土台や地下配管がぐちゃぐちゃとなってしまった。


まだ、ガレキの山ばかりで何処から手を付ければ良いのか分からない様な状況で、遺体すら全て回収出来ていない。

それでも、この石橋の様に時間は掛かっても一つ一つ積み上げる様に修復出来るものは修復して、新しく作る物は作っていけばいつかは必ず元に戻るだろう。

こう言う橋を見ているとそんな気がしてならない。


しかし、恐ろしいのは人の力だ。

自然災害は一過性だが、原発事故は状況によっては長い間修復も再建も困難となりかねない。

既に、周辺の遺体を回収できない状況となってしまい、死の街と化しつつある。


今回の災害は自分達のやっていた事と共に、自然と共存する事の大切さを気付かされた気がする。


昔の江戸と言うのは大火が良く発生した。

この場合は災害と言うよりも人災だが、この為、江戸っ子は「宵越しの金は持たない」と言われる。

これは、寝ている間に火事で燃えてしまうよりは金離れよく使ってしまう方がいいという様な意味あいがあった様だ。
※だからと言って、このブログを読んでるW君「よし、新しいゲームを買わなければ!」と奥さんにおねだりしない様に。


物質文明が進んだ現在では、物や家を借金までして手に入れるが、こう言う状況が起こると最後は身体一つとなってしまい虚しいと言えば虚しい。


幾つかの例外はあるが、僕は特に物にコダワリが無い。

コダワリがあるとすれば、便利な物を含めて、自分の身を助ける物にはコダワリがある。

それは直接・間接に関わらないが、特に高価な物は必要としない。
逆に、基本となる「衣食住」と言うものにはそれ程コダワリが無い。

車も楽器が乗せられて軽快に走れれば、出来るだけ場所をとらずに小さい方が良いと思って今の車にしている。

だから、ある意味、南だろうが北だろうが、何処へ行っても何処に住んで何を食べても暮らせると言う訳だ。


そして、僕の使っているエネルギーの大半は仕事と音楽だが、例え、先の物を失ってしまったとしても、仕事の技術、演奏の技術は、どちらも身体一つになっても失うことは無い。
勿論、それ以外にも生きる為の知恵や技術も少なからずあるつもりだ。

例えば、お金が沢山あって物も沢山手に入れられるが、もし、それらを失った時に身体一つで生きて行けるのか?

今回の災害はそう言う事を含めて色々な事を考えさせられる。

又、そう言う事を考えることも、被災者では無い人達がやらなければならない事だと思っている。