昨日はパーティ | iPhone De Blog

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2009年12月7日からスタート
iPhone3GSからiPhoneユーザのLEONがiPhoneやAndroidなどを中心にしたデジタル系ガジェット、IT関連ネタ、趣味のコントラバスやチェロを中心としたクラシックネタ、2022年から始めた自家焙煎に関する話や日常の話まで幅広く書いてます。

福岡ドームへ隣接するホテルで行われたパーティだが、普通の忘年会パーティーでは無い。


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この付近にある地元TV局の美術部長であるKさんの退職慰労パーティだった。


会場には200人近い関係者が集まりK部長の退職を労った。


僕がこの会に呼ばれたのは遙か昔の大学生時代に、このTV局の美術部でアルバイトをしていたからだ。

もう30年近い昔だ。

同期で仕事をしていた人達も二テーブルほど集まり昔話に花が咲いた。


Kさんはまだ若く、僕達にとっては兄貴的な存在だった。


美術の仕事と言っても、僕らの時代は殆ど力仕事で、平台や箱馬を使ってKさんが描いた平面図からセットを作っていくと言う仕事だったが、最近は料理番組のアシスタント等と言う仕事も入るようで女の子も居る様だ。


普段は4人一組でローテーションを組んで、午前中は生放送の収録があるが、大抵、そのセットは前日に配置しておき、生放送の時はスタジオ待機で、時々本番中にある配置換え等をやっていたが、終わったらバラして、午後のビデオ撮りのセットを組むと言う感じだった。


時々夜収録がある音楽番組は夜間労働だったからか時給も良かったし、食券が出て地下にある食堂の美味しいご飯が食べられるのも嬉しかった。


又、生番組では時々ゲストとして当時のアイドルやスターもやって来て、それを近くで眺められる特典もあった(笑)


未だに覚えているが、当時まだ無名だった真田広之がスタジオに入って来て、「何か良い体のニーチャンだけど新しいバイト?」とか思って眺めていたらゲストだったなんて事もあった(笑)


会場のセットの一部として使われたKさんお気に入り?の和室のセットには昔のセットの写真が貼られていた。

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この局は現在の前は福岡市内の高台に局社があり、僕達はそこへ通っていたが、他の局は知らないが街中の喧騒から少し離れたノンびりした雰囲気が好きだった。

実は、その局社も数年前に取り壊しとなり、その時も美術や技術のバイトが集まってパーティをやった。


当時の時給と比べると比較にならない位高額の時給に加えて、拘束時間は長いが、実働は非常に少なく、又、普段、八時間勤務でもKさんは殆ど六時間程度で帰してくれたので、夕方から始まるオーケストラの練習も充分間にあったし、他にバイトをしなくても良いほどだった。


バイトそのものもオーケストラの先輩が紹介して連れて行って貰ったが、当時は、紹介制で公募等はしていなかったので、来ている人間は殆ど繋がりがあり仲が良かった。

その為、今回のパーティや局社が取り壊しの時も集まってきたのだった。


昨日も、僕をこのバイトへ連れていってくれた先輩が来られていて非常に懐かしかった。


聞けば、その娘さんもこの美術でアルバイトをしているらしく、親子2代にわたってと言う事になる。


もう一組そう言う親子が居たが、最近は昔の様な紹介システムでは無く、派遣会社へ外注と言う形になっている為、その娘さん達が仕事が出来る様に、Kさんが尽力された様だ。


確かに、派遣会社の場合コストダウンにもなるのだろうが、僕達の様な人との繋がりは出来ないのでは無いだろうか。


ある意味アルバイトとは言っても僕らの時代は今と比べ物にならない位良かったのでは無いだろうか。

たった30年程だが、今の社会の厳しい状況を考えると隔世の感がある。


話を昨日のパーティへ戻すが、まあ、そう言う面倒見の良い人なので、長い年月の間に沢山の人との繋がりが出来て、200人もの人達が集まったのだろう。


しかし、さすがにTV局らしく、中央にスクリーンを配置して、固定カメラからハンディまで使ってインタビューその他を映し出し、昔の映像を流すなどされ、司会も局アナの二人なので本格的。


インタビュアーは福岡吉本の若手が行い、ビデオのインタビューでは東京で活躍している吉本関係の芸人もメッセージをしていた。


当日の事は本人には全く知らされてなかった様で、忘年会があるからと言って呼ばれて来たらしく、結婚式さながら、会場へ入ると大音響の音楽とスモークがたかれてビックリされていた。


奥さんには知らされていた様で、奥さんも来られていたが、演出その他も本職がやっているのであっと言う間の二時間だった。


僕は大学時代にアルバイトをしただけなので、この業界の事に詳しい訳では無いが、この様な業界は人との競争が激しいだろうし、こうやって他人から慕われる人は少ないのでは無いだろうか。


インタビューでも沢山の人が言われていたが、Kさんはどんな無理難題でも「何とかしてみよう」と落ち着いて対応されていた様で、美術センスそのものも素晴らしい人だったが、それ以上に人柄が素晴らしかったのだと思う。


Kさんは数多くの映像に残るセットだけでなく、人との絆も残されて来た様だ。


僕の場合は定年は無いが、まだまだそう言う仕事をしたいものだと感じた夜だった。


Kさん37年お疲れさまでした。