記念イヤーの作曲家をもう一人紹介。
今年はメンデルスゾーン生誕200年だった。
「メンコン」と言うのは「メンデルスゾーンのバイオリンコンチェルト」の通称で、メンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトと言えば、恐らく、クラシックファンじゃなくても、その出だしを聞けばすぐに分る位、有名な曲ではないだろうか。
ちなみにコンチェルトと言うのは、協奏曲と言われるジャンルで、通常はオーケストラをバックに何等かの楽器がソロを弾く形になる。
ピアノ、バイオリン辺りの楽器は、ある程度の作曲家であればたいていコンチェルトを書いているし、時には演奏者本人が曲を作り自作自演と言う形もある。
リサイタル等では、オーケストラでは無くピアノ伴奏で演奏する場合もあるが、やはり醍醐味はオーケストラをバックにしてる時であろう。
当然、オーケストラをバックにする場合、それなりの集客が出来なければいけない為、このクラスになると演奏もそれなりにレベルが高い。
当然オーケストラになると指揮者も居る訳で、ソロを弾くソリストとオーケストラを繋ぐ重要な役割を果たしながら、ソリストと協同で音楽を作って行かなければならないので、コンチェルトがちゃんと振れるようになれば指揮者としても一人前と言えるのでは無いだろうか。
話をメンデルスゾーンに戻すが、クラシックの音楽家としては彼は珍しく裕福な家庭に生まれ、経済的には恵まれた一生を送った。
だが、単なる金持ちのボンボンでは無く、天才的な一面があった様で、
『一度見た楽譜や一度聞いた音楽を完璧に記憶する記憶能力を有していたという。
伝わっている逸話の1つとして、代表作の1つである『夏の夜の夢』序曲の楽譜を引越す際に紛失してしまうも、記憶だけを頼りに全てまた書き出して見せた、というものが残っている。
後に元の楽譜が発見されるが、書き直した楽譜と元の楽譜は7箇所が異なるだけで、あとは完璧に同じだったと言う(その7箇所も間違えたのではなく、メンデルスゾーン本人が意図して直したものではないかと言われている)。
多数の言語を自在に操り、青年になる頃にはドイツ語のみならず、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語までも話していた。音楽のみならず詩や絵(水彩画)にも興味を持ち、いくつかの作品を残している。
特に水彩画に関しては趣味として楽しんでいたが、本職の画家顔負けの実力を持っていた。
作曲以外の彼の最も重要な業績はまず、それまで独立していなかった指揮者という職務を独立させ、自らも極めて有能な指揮者として率先して範を示し、弟子たちに指揮法を教え、現在にまで至る指揮法を確立した創始者であるという点である』
とWikipediaにあるが、非常に多彩な人で、天才だったんだろう。
但し、メンデルスゾーンの家系はユダヤ人であった為、かなり早い時期に迫害を受け、辛い経験もしているし、ドイツではナチス時代は演奏禁止となっていた作曲家でもあった。
そう言う人だから作品も多いが、最も有名なものは「夏の夜の夢」の中の結婚行進曲であろう。
ワーグナーのオペラ『ローエングリン』に登場する「婚礼の合唱」とメンデルスゾーンの「結婚行進曲」は、恐らく結婚式に関係する曲の双璧だろう。
しかし、作品の多くは才能溢れるものであり、音楽だけでは無く、水彩画も堪能であった事から、曲は色彩感覚に溢れたものが多い反面、難曲が多い。
色彩感覚が溢れた曲と言う場合、後ろで、ヒラヒラと細かい音符が舞ってる場合が多かったり、リズムが難しかったりするが、このヒラヒラとした感じを軽やかに演奏するのは大変難しい。
このバイオリンコンチェルトもイントロにヒラヒラとオーケストラのバイオリンが入るが、この瞬間でオーケストラのレベルが分る。
輝かしい実績の反面、シスコンの面もあったのか、5歳年上の姉ファニー・メンデルスゾーンを非常に慕っていた。
彼女も非常に才能溢れる女性で、自身も作曲をし、ピアニストとしても業績を残していて、夫のヴィルヘルム・ヘンゼルによるファニー・メンデルスゾーンの肖像を見ると写真の様にかなりの美貌の持ち主でもあった様だ。
この姉は僅か42歳の若さで脳卒中で突然亡くなったが、メンデルスゾーンは悲嘆の余り神経障害を起こした程で、一時回復したが僅か半年後、38歳の若さで同じ脳卒中で倒れて亡くなった。
まさに駆け抜ける青春。 天才も美人も薄命であった。
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