『詩と思想』10月号にて

私の詩「山姥の娘」が入選をいただきました

以下に詩の前文を書きますね

 

 

 

山姥(やまうば)の娘

 

 

 

 

 

)

 

 

南中を指す虎の尾の花

          からからと鳴る

     あのひとが忍び足でやってくる

 

            小さな赤い櫛を懐に入れて

          だいじに持ってきてくれたひと

 

薄あかりの逢瀬        川辺の草莚に

                  身を横たえて

 

ざわ わん

 急げ      急げと    木々が両手を広げ               

ざん ざんざざん 

                  藪をかき分け

 

かかさまに知れたら     

  その吐息は 柘榴石となって

白昼に       鳥も落ちるだろう

 

  頂の岩屋に  閉じ込められてしまう

    葛の蔓に幾重にも絡まる山楝蛇(やまかがし)

                   濡れた舌

 

    このひとにだけ   忘れ草を口に含ませ

             都へ逃そうか

 

               それは 出来ない

 

        翻る袖をつかもうと

             爪を砥ぐ音がきこえる

鬼灯をかかげて走る

        西の空  沸き立つ

            稲妻        

 

降る山百合の紅粉を背守りに

       互いの衣の紐を固く結び   

   獣道を

 

                駆け降りてゆく

                駆け降りてゆく

 

 

 

 

 

評者の清岳こうさんの評は

以下の通りです

 

 

いつもながら安定した物語詩。「虎の尾」

山楝」「忘れ草」「鬼灯」「山百合の紅粉」

の小道具もぴたりとはまり、煩わしさ

を感じさせないのは、その必然性と象

徴性が適切だからにほかなりません。

ただ、気になった点が二点。「その吐息」

は女、あるいは男の吐息だとしたら「こ

の吐息」ではないでしょうか。もう一

点、これはこの作品の評価に関わる大

きな問題です。行分けと空白の取り方

の効果です。明らかに、これはしのぶ

恋の、それも生命力と野生に満ちた恋

の吐息、危険、運命を明示して秀逸と

いえば秀逸。しかし、この視覚的な効

果に頼ったゆえのエネルギーの失速も

感じられます。すでに先人たちの実験

済みの技法に拠る時は相当の覚悟も必

要かと思います。

 

 

 

前からたびたび書いていることですが

私はこれまであまり他の方の作品を読まないできました

真似になるのが怖いんでしょうね

あと意外と真面目なのでお勉強してしまうんです

良いと言われている詩は何か、みたいなものを

なので読まないようにしてきたんですね

また、読んだとしてもすぐに詩がわいてきて夢中になり

途中で止まってしまうのです

なので何が常套なのかも知らずに書き続けています

以前の作品の「迷い家」の月夜に梅もそうですし 

今回の行分けも常套手段と知らずに

ああーなんていい考えだ!躍動感が出る!

なーんて思いながら書いていました 笑

たはは

やはり知ることは大切なのですね

 

その吐息は柘榴石となって

の部分は、山姥の吐息のつもりでしたが

山娘や男の息ともとれますね

走っているわけですから

ただ逃げる二人の息とするなら

何か虫にするとおもいます

いなごじゃなくて、蛍じゃなくて

何でしょうね

男は里の人ですから変化しないし

でも山の人と一緒にいれば男も

魔力を得るのかもしれません

柘榴石はガーネットの和語で

よい言葉だとおもいます

「その」はなしにしてもいいですね

盛り込みたい欲と詩としての機能を

よく見てみます

 

清武さんがおっしゃるようにふつうの行分けにしたら

どうなるか見てみます

ざわわん のところと

最後の駆けおりてゆくを二回繰り返すところは

残そうと思います

いろいろ実験してみますね

 

 

大好きな花

ダリア