前作『水源の街より』では川になぞらえながら

住む土地、ときに草間さん自身の起源へとさかのぼる

そんなテーマだったように思う

著者の声がじかに聴こえてくるような一冊だった

 

今作「hallucination」では声ではなく徹頭徹尾

文字で勝負した詩集だと感じた

前作同様に川や空、海、雨などの有機的な周辺

そして街やそこに住む人たちとの交わりを散りばめながらも

硬質な観察眼で現代の欺瞞やdysfunctionality をすくい上げ

提示している

 

第一章 「水平線に、春、近すぎて見えない」

では以下のフレーズが特に響いた


「明晰夢」 ” 子どもたちが目を見張り耳を押さえる ”

「春は曇り日。庭先で犬を洗う」 ” 飼いならされればいいんだよ ”
「空想保護区」 ”「 きれいだね(嘘だよ)」「 うん、きれいだね(嘘だよ)」”

 

現代社会を構成する当事者として

やわらかに自分ごととして語っているところに

草間さんの人としての深みを感じる

critical ではあるけれどcriticize していない

批評ではあるが、批判ではないのだ

草間さんは世界と自身の間を川で隔てない

時代をぐいぐいとさぐるだけではなく

必ず暖かさや、さみしさに回帰するところがさすがだ


一方作品の中では、世相や人をちょっと離れたところで

ぽつんと見ている少女がいる

この距離感が独特だ

これは読者と草間さんの距離にも応用されている

独立した感性や視線を保つために体得した習性だろうか

詩を自分語りの場とすることを封じる

本人の美学の表れかもしれない

鋼鉄の観察眼の隙間から

乳白色のババロアのような柔らかさが

顔を見せている

その「ババロア性」は

第二章に一篇だけあげられた「霧の町のたろう」

そして第三章の「空席」「みちゆき」「はつ恋」
ああすてきだ。
感情を鯨の屍骸やブイになぞらえて、存分に芳香を放っている

少女の感性と感情、そういったものだろうか

 

麗しのババロワ。

もちろん幼いとか脆いなどという意味ではなく

第四章の「Noah」は一転、アレクサのような

音声認識によるAIが人間の生活全般を扱い

操作するようになるかもしれない

近未来を予見している

 

「孤独を飼いならす猫は / どんな時も満ち足りています / 

いいですか / うれしい孤独は / あなたの友です 」

 

「触れ合うことで / ぬくもりは得られない / だからあなたは自分を抱くのだ 」

 

AIを生活に取り込んで孤独に陥れられる一方で

それが人間の隠れた動機なのかも、とはっとさせられた


現代詩とは何かという命題を模索して久しい詩界で

草間さんは果敢に時代を掴み

一歩先を見据えた作品を詩界に提示している

詩人としてのみならずアーティストとして

令和初期という今の時代に目を凝らし

風にはためくワンピースを着た少女が

「どう?」

と詩界に提示する一冊だ。

 

決して上目づかいなんかじゃない。