『詩と思想』8月号にて

私の詩が入選をいただきましたので

ここにご紹介いたします

(改行は『詩と思想』に掲載している通りではないです)スミマセン

 

 

 

灯台の目をした男

 

 

そのカフェはぺかぺか光る階段を降りていったところにある。金ぶち眼鏡の背の高い男がドアを開けてくれた。「いらっしゃあい。」うきうきした声で迎え入れてくれた。「あなたの年齢は?」正直に答えたら、男は急に笑うのをやめて黄色い毛が渦巻く長い腕をにゅうっと上げ、どこにでも座れと指さすと消えてしまった

赤天鵞絨色の店内の一番奥の席に小男が座っていた。来た客を一人残さず見定めるために。どこへでも一番乗りするのは他に何もすることがない人間の習性。黒いタートルネックを着ているが、男は白い灯台だった。その目が私に照準を合わせると反射鏡がくるりと回転し、閃光が胸と腹の間をじわりと貫いた。

小男は国境がしょっちゅうかわるP共和国から来た。「芋とミルクばかりが潤沢な貧しい国さ。」すっぱいワインをすすりながら、虫のように笑わなかった。

男の使命は溺れそうな女たちを見つけては行く道を指し示すこと。とんちんかんな方角にふらふら向かっていたり、潮目を見誤って流されそうな小舟を見つけては、あの目でピカリと探し出し、航路を照らす。

男は一切の魅力に欠けていた。誠実で美しい女が見向きもしないように造られている。助けた女たちが代償に恋に堕ちてはくれまいかと毎度期待しているけれど、小舟は礼も言わずに帆を高く上げて水平線の向こうへするりと消えてしまう。見送るべき女の数は決まっている。八割がた済んだと思うが、いつまでたっても八割のままなのだった。鼻先に恋を人参のようにぶらさげられつつ、男は赤天鵞絨色のカフェの一番奥の席ですっぱいワインをすすって今日も座っている。

その目の奥の扉から螺旋階段を降りていくと、故郷の森で祖母が娘時代に銃弾をよけながら摘んだスグリの実が籠の底で静かに光っていた。

 

 

このころは詩をどれだけ散文に

近づけることができるかを実験していました

散文風の中にどれだけ詩を盛り込めるか、です

 

灯台の男の根っこにはお婆さんの森の黒い実

ちょっと突拍子がないかなと思いつつ

やはり彼の目の奥にはそれが転がっていたので

このエンディングになりました

彼はとあるカフェで出会った実在の人物なのです

 

 

 

清岳こうさんの評はこんな風でした

 

細部の描写の確かさが、この詩篇を現

実的なものにしています。「ぺかぺか

光る階段」などという部分も生理的な

感覚に訴える強みがあります。「虫の

ように笑わなかった」は読み手の意表

を突き、神経に触ってきます。最後の

「スグリの実」も鮮やかな色彩を伴っ

て浮かんできます。銃弾をよけなけれ

ばならなかった祖母の娘時代は今も続

いているのだ、そんな深い怒りが届い

てきます。全体的によくまとまってい

る作品ゆえに、男と救われた女たちが

何の象徴なのか、何の象徴でもないの

か、単なる物語なのか判然としないま

ま終わってしまったのが惜しいと思い

ます

 

 

さいきん説明過多になることを恐れて

ぐいっと言い切る力がそがれているように思います

清岳さんの評はそのことをおっしゃっているのでしょう

伝えるということは相手に深く理解してもらえると

いうことでもあるので

ポストモダン風にあまりひっぱられないように

かつ、詩として機能するように

そのバランスを見極めないといけないですね

 

いずれにしても清岳さんは紙の上だけでスラスラと書いて

悦に入るなよとおっしゃっているんだとおもいます

常に上を見るようにそして源泉を掘り当てなさいと

毎回励ましてくださっているのを感じます

 

この男の人のおかげで詩をはじめたと

言っていいとおもいます

自分のことを書けばよかったのかなが

でも「こうして私は詩を書くようになった」

という詩は書けないなとおもって

人を次のステップに送る役割を持った人についての

一般論みたいになりました

いつか彼と私の物語を書けたらと思います

 

一度会っただけのひと

彼はきっと

いまもひとり