前の記事でご紹介した「蔦の家」とともに

『詩と思想』10月号にて佳作をいただいたのが

「雨季の儀式」です

佳作は誌面に紹介されないので

ここに全文を載せます

 

 

 

   雨季の儀式

 

 

桃を剥く

核心すれすれのところに刃を入れながら

むき出しになっていく匂やかな果肉に

思うまま指を絡ませるのは

この季節との約束事のように思われる

皿にたまった朱鷺色のみずうみを

ちゅっと飲み干したあと

無残に折り重なった皮も

種のまわりの血管みたいな繊維も

二重三重に封じて

さっと手を洗い

何もなかったふりをする

翌朝ごみ集積所にポイと捨てたあと

誰にも会わずに部屋に戻ることができたら

わたしの勝ち

二段飛びで駈け上る

階段の壁に触れたとき

いつだったか頬に口づけしてくれた人の

唇の湿りと

ほんのちょっとかすった髭の

ざらつきを思い出し

二の腕に鳥肌が立った

嫌いじゃなかったはずなのに

 

もうすぐ雨がやむだろう

蝉が鳴いたら梅雨が明ける

バス停でいっしょになったお婆さんが

そう教えてくれた

 

 

佳作に選んでくださった尾世川氏の評はこちらです

 

 

前半は熟した桃を剥いて食べるシーン。

ここは魅力的。桃が好きなのだろう、

なかなか官能的でさえある。

後半、頬にキスした人の髭のザラつきで

二の腕に鳥肌が立つシーンはまぁまぁとして、

最終連がなんとも味わいに乏しい。

 

 

ムムム

いつもながらキビシイですね 笑

 

たしかに最後の連では作品全体を見てから

しめくくりとなるようなものを書いたのではなく

この詩を書いていた時期に

実際に体験してぜひ詩にしたいとおもったこと

(バス停でおばあさんに会って夏のはじまりについて話したこと)

を書きたかったので

ちょっと合わないかな~とおもいつつも

提出までに時間がなくて

そのままエイヤっと書いてしまったんですね

評を読んで「やっぱり~」とおもいました

自分の中で納得できていないことは

ほかの方から見てもおかしいなってわかるんですよね

当たり前なのでしょうけど毎度おどろかされます

この詩はいままた推敲しています

そのとき書きたいことも大切ですが

引きずられずにぐっとこらえて

ひとつの詩作品として整合性があるかというのも

ちゃんと考えないといけないですね

次に生かしたいとおもいます

 

 

ちょっと季節はずれですが

随分前の近くの緑地

ここはいつも紫陽花がきれい

やけに紫陽花がきれいな年でした

 

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この詩は書き直して詩集『彼女の劇場』に収めました

どう違うでしょうか?元と比べてみてくださいね