がんばりたい自分と、
がんばれない自分。
選択できる自分は常に一人。
生きるって難しいね!?
だから、愉しいのかも…!?
なぁ~んてね
そんな風に考えるもぐ爺です。
人には、常に相反する自分が存在します。 可否も、是非も、正誤も、善悪さえも、相反する自分が存在していることが常なのかも知れません。
明らかに否であると解かっていても…、倫理的には非であると解かっていても…、それが例え誤りだと判断されることが解かっていても、その道を選択してしまう場合があるのかも知れません。
選択せざるを得ない場合があるのかも知れません。 その先には、決して幸いは無いかも知れないと解かってはいても、その答えを選択してしまう場合があります。
その一時、苦し紛れに楽を最優先してしまえば、その道を選択せざるを得ない場合もあります。 仙人や聖人君子でもなければ、人は常に自由を求めます。
どんな隙間でも、自分が自由への道であると考えてしまえば…、そう思い込んでしまえば…、その隙間を何とか潜り抜けようとしてしまうのが、人に備わった自由への願望や欲望なのかも知れません。
それが、人が持つ自由への本能であり、自由に対する期待や欲求なのかも知れませんが、そこにある自己責任を忘れがちです。
常に、人として進むべき道を選択しようとしてがんばりたい自分と、人の道からは反すると解かっていても、時にはがんばれない自分がいるのも、当然と言えば当然なのかも知れません。
常にがんばれる自分でいたいのか…、ある時にはがんばれない自分がいることを、有りの侭受け止められるのか…、時には楽を優先するあまりがんばりたくない自分がいることもあるのかも知れません。
それでもがんばらなくてはいけない時もあるのかも知れませんが…、その選択は自分にしかできないのかも知れません。 その判断も自分にしかできません。
正誤も善悪も…、可否や正誤も…、幸不幸や満不満も…、出た結果を評価するのは常に自分一人。 出た結果を有りの侭受け止めるもの、全てを拒否するのも、決めるのは常に自分一人。
例え、その場限りの自己満足だとしても、その結果は全て自分の歴史。 どんな言い訳を繰り返しても自己都合最優先の選択なのかも知れません。
しかし、いかなる選択もいつかは自分のバイブルになり得る学びの一つになるのかも知れません。
そんなことを難しく考えてしまえば、生きるって難しいと感じてしまうのかも知れません!? 逆に考えれば、だから人生って愉しいのかも知れません!?
どんな結果であろうと、どんな選択であろうと、全ては自分自身で解決できる問題の筈です。
例えどんな問題であったとしても、自分の選択によって出た結果ですから、自分で解決できる筈なんです。 それが自己責任です。
全ては、自分で解決すべき問題なのかも知れません。 なぜなら、全て自分が選択した結果なのに、他人様にその判断を委ねることは、責任放棄になるのかも知れないからです。 責任転嫁になるのかも知れません。
結果として、自分の人生を無責任に生きていることになるのかも知れません。
他人様が何を言おうが、自分が正義だと思えば、正義であると主張し続けることは可能なのかも知れません。
自分が誤りだと決め付けてしまえば、その結果や選択は常に誤りの侭一生付いて回ります。
自分がしあわせだと思えば、しあわせであり、自分が不幸だと思えば不幸なのかも知れません。
その判断を他人様に委ねることなく、自分自身が受け止められる結果とは、自己都合の良い結果だけになってしまうのかも知れませんが、
人は基本的に自己都合最優先で自分の為に自由に生きていきたいと願う欲求がある筈だともぐ爺は考えておりますので、それはそれで自己防衛の手段としてはベストな選択なのでは無いのでしょうか!?
どんなにがんばりたくても、がんばれない時はあるんです。 その結果を、正誤なのか…、是非なのか…、可否なのかを判断するのは他人様ではなく自分自身であることだけは決して忘れてはならない真実なのかも知れません。
そしてその真実は、やがて事実となり、時を経て己を大きくしてくれるのではないかともぐ爺は思っています。
人は何もかもが自由であり、全てが自己責任です。 誰しもが、はじめて歩く人生なのに、誰も責任を取ってくれる人は居ないのです。
生い立ちや環境の異なる他人様にいくらアドバイスを頂いたとしても、その侭を実践できる人はほとんど居られないのかも知れません。
他人様に頂くものはあくまでヒントであり、問題解決に当たる為のスポットライトであると考えることが大事なのかも知れません。
他人様の安易な判断は、自分を貶めてしまう結果を招き兼ねない愚かな選択なのかも知れません。
もう一度自分の自由を冷静に判断できる自分を失ってはいけないのかも知れません。 自由と責任は、自分らしく生きる為の両輪です。
がんばりたい自分も自分、
がんばれない自分も自分。
どの自分も本当の自分。
その中で、選択できる自分は常に一人。
愉しく、悔いなく生きるって、
マジで難しいことなのかも知れません!?
だから、愉しいのかも知れません!?
愉しめなきゃ、勿体ないのかも知れません!?
愉しめる様にがんばれなきゃ、
悔いや未練が残ってしまうのかも知れません!?
がんばれる時には、精一杯がんばらないといけないのかも知れません!?
ただ、がんばり過ぎないように気を付けて、先ずは真の愉しさを知るところからがんばってみましょう!
なぁ~んてね
石見地方でも梅雨が明け、真夏の日差しに溶けそうなもぐ爺ですが、マイカーのエアコンが故障して、購入時とほぼ同額の修理費に目眩しています。
7年前に20万円で購入した車を、21万円掛けて修理することには疑問を抱いたもぐ爺です。
しかし、代替えしようにも、貧乏人のもぐ爺には叶わない夢であり、そろそろ免許を返納することも考えないといけない年齢に達していますので、25万km.走った軽自動車のエアコンを仕方なく修理しました。
お陰様で、移動は苦にならなくなりましたが、果たしていつまで愛車が持つのか不安に苛まれるもぐ爺です。
SDGsが叫ばれている昨今、時代に合った選択だったのかも知れませんが、不安が残る選択であったことも事実です。
皆さん物と地球は大事にしましょう!
あっ、そう言うことじゃ無いのかな⁉️
きっと、そう言うことじゃ無いですよね❓️❗
なぁ~んてね
熱中症と天災にお気を付けいただき、心身無事を最優先に暑い夏を乗り切って頂ければ幸いに存じます。
ではまた、9月のカレンダーでお会いしましょう。