古い「芸術新潮」をパラパラめくっていたら、
興味深い一文にあたった。
以下引用させていただきます。
十一面観音は、十一面神呪経から生まれたと専門家は言うが、
自然に発生したものではあるまい。
一人一人の僧侶や芸術家が、それぞれの気質と才能に応じて、
過去の経験の中から造り上げた、精神の結晶に他ならない。
仏法という共通の目的を目指して、
これ程多くの表現が行われたのをみると、
結局それは一人の方法、一人の完成であったことに気がつく。
そして、ひとりの人間がほんとうに自己に徹した時、
はじめて普遍的な思想が形成されるのだと思う。
(途中省略)
ものを造るとは、ものを知ることであり、
それは外部の知識や教養から得ることの不可能な、
ある確かな手応えを自覚することだと思う。
1975.3月号白州正子「十一面観音巡礼」より抜粋
冒頭の写真は渡岸寺の十一面観音である。
その裏には恐ろしい暴悪大笑面が彫られているそうだ。
ものを造るものとして、この文章にはとても励まされる。
だからあえて引用させていただいた。
そもそも、なぜ他人から見たら無駄とも思える制作活動に
没頭するのだろうか?そこに答えをもらったような気がした。
(なんで失敗するとあぁも落ち込むのかもわかった)
ものを造る人なら、きっとこの文章に励まされるに違いない。

