フェニキア、カルタゴ、カルロスゴーン。 | 添乗員 森田 世界の旅

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ハネムーン

1月15日、カルタゴ。

カルタゴの町を建設するフェニキア人の故郷は

地中海の付け根、現在のレバノンのティール辺り。

紀元前15世紀都市国家を形成する。

紀元前12世紀、ギリシャより300年早くレバノン杉製の

船で地中海に進出し北アフリカからイベリア半島まで

交易活動に励んだ。

紀元前11世紀にはイスラエル王ダビデと友好関係を結び

紀元前10世紀にはイスラエル王ソロモンと共同で紅海貿易

を行っている。

特産品はレバノン杉と貝紫から採る紫の染料、

またアルファベットに古代オリエント文明を地中海全域に

もたらした。血筋はノアの息子のセム系で、彼らの話す

セム語は地中海地域の国々の語源となった。

交易の民、優れた商人は交易ネットワークを駆使し

フェニキア人は地中海世界を繋いで行った。

 

本国がアッシリアの攻撃に服属するころ、内政問題から

ティールの王の娘エリッサは海へ出た。

途中キプロスに立ち寄り、亡命先での子孫たちを思い

80人の女性を船に乗せた。

紀元前814年、地中海には珍しく水深の浅い、イカリを

下ろしやすい入江があった、入江の東にはボン岬半島、

見上げる陸地が丘があり、丘の背後には湖が広がっていた。

 

船を下り丘へ上がる、地元の王は雄牛の皮で覆えるだけの

土地を上げようと言ったので、皮を薄く切り縄を作り

丘を囲って見せた。

そこはビュルサ(皮)の丘と呼ばれ、まさにカルタゴ伝説の

始まりの場所。

エリッサが整備した新憲法はアリストテレスからも高く評価

され、紀元前4世紀祖国フェニキアがアレクサンダー大王に

よって滅ぼされた後もカルタゴの繁栄は700年間続く事になる。

ところでカルタゴ伝説の始まりの丘にはこれと言って

カルタゴ時代のものはないのだが、、、

紀元前3世紀、海の向こうで力をつけてきたローマが攻め

てきた。紀元前264年から23年間に及ぶ第一次ポエニ戦争に

敗れ地中海最大の島シチリア島にサルディーニャ島を失う。

アミルカルは9才の息子ハンニバルを連れスペインへ渡り

鉱山を開発、戦争賠償金を払い終えると、

紀元前218年父の意志を継いだハンニバルはローマを

目指した。(第二次ポエニ戦争)

ローマを脅威に陥れたハンニバルの連戦連勝の戦いは、

カルタゴの元老院を支配していた政敵の策略で

形勢が逆転、

紀元前202年ローマの執政官スキピオとのチュニジア中西部

ザマの戦いに敗れる事に。

これを機にローマは世界唯一の超大国へとなって行った。

 

カルタゴは残された僅かな交易ネットワークに、優秀な

知恵を持ってか、あっという間に復興する。

三度経済的繁栄を築くカルタゴに対し、紀元前146年、

(これを第三次ポエニ戦争と言うが)ローマによるカルタゴ

絶滅計画に8日間かけて町は焼き払われ、記念碑も図書も

焼かれ、人間が住めぬよう土地に大量の塩がまかれた。

僅かに残った男すべては奴隷として連れさらわれた。

 

と言うわけで、カルタゴの時代のモノはこれと言って

残っていないが、しかし丘の一部からはローマの時代の

その下にカルタゴ時代が少し発見されている。

ビュルサの丘を下ると、ローマが再利用したため残った

古代カルタゴの港がある。

チュニス半島は地中海のど真ん中にあり、

スペインからエジプトそして紅海までの貿易のハブ

だった、立派な商業港だけでなく、軍港があった。

もう一つカルタゴ的なモノは地面の中から、

19世紀のフランス時代に発見された墓である。

カルタゴが信じた天と豊穣の女神タニトが刻まれた石碑。

 

塩をまいては見たものの、カルタゴの再生は

紀元前44年ローマ、ユリウスカエサルの勅令をもって

開始され、ビュルサの丘一帯に町が建設された。

2世紀には30万人の人口を持つローマ帝国で3番目に

重要な町となっていく。

1世紀アントニヌスの時代、

3,5㌶でローマ世界3番目の大きさの浴場が建設される。

あくまで市民のための公衆浴場だが、巨大だ。

大浴場に冷水浴場、サウナにマッサージ、ジムとプールと

娯楽スペース完備、男女別左右対称。

カルタゴにハンニバルの面影を辿ろうとも、

その後のローマが築き上げたものの下に葬り去られて

しまっている。

 

ちなみにハンニバルの墓はなぜかイスタンブールにあるが、

実際にはわかっていない。

そういえばカルロスゴーン氏の両親はフェニキアの血を引く

レバノン人だったか、

 

さて午後はローマ時代の繁栄物語るドゥッガへ行って

ローマの遺跡を歩こうか。