ワルシャワの真ん中の小さな記念碑。 | 添乗員 森田 世界の旅

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12月17日、ワルシャワ観光。

ワルシャワの目立たぬ真ん中に小さな記念碑があった。

1939年9月にドイツ軍に占領されるワルシャワに、

ユダヤ人はユダヤ人が作らされたゲットーに強制居住

させられた。

 

ゲットー、ユダヤ人強制居住区は、

11世紀の十字軍の遠征を機に始まるユダヤ人の迫害時

ドイツ始め欧州各地に。

14世紀に欧州でペストが流行ると、ユダヤ人のせいにされ

ゲットーが復活。

また16世紀には反ユダヤ主義のローマ教皇により

ヴェネツィア、ローマにゲットーが出来た。

宗教、文化的に少数のユダヤ人は時代時代で差別されたが、

20世紀ナチスのユダヤ絶滅計画の元に復活する。

 

ポーランドは元々14世紀のガジミエーシュ王の時代から

民族、宗教の寛容により差別はなく、

当然多くのユダヤ人による商売で活気に満ちていた。

ワルシャワの30%のユダヤ人が市の2%の高い壁と自由のない

ゲットーに押し込まれ、その数は欧州で最大の45万人。

1942年の夏には労働不能とされた30万人が北部

トレブリンカ絶滅収容所で抹殺された。

当初ドイツの収容所は労働キャンプと思われていたが、

そこが死の収容所と解りはじめた42年の終わり、

ドイツに対しユダヤ人レジスタンスがひそかに

立ち上がる。

武器の入手はうまくいかなかったが、

1943年4月19日、トレブリンカ収容所への移送のために

入場したドイツ兵に火炎瓶が投げられた。

16人の死者を出しその日の移送は中止された。

これがたった1日だけの勝利だった、

ワルシャワゲットー蜂起は5月16日、ユダヤ人の絶滅をもって

ワルシャワからゲットーがなくなった。

これが壁の一部だろうか、モニュメントだろうか。

その横、最高裁判所を背にワルシャワ蜂起の記念碑。

1944年6月、ソ連がベラルーシでドイツ軍を敗ると

占領域をポーランド東部にまで広げ、

7月30日ワルシャワまで10㌔の地点までやって来た。

ソ連の蜂起の呼びかけにポーランドレジスタンスは

立ち上がる。

武器は殆ど持っていなかったが、ソ連の後押しを

待ち、火炎瓶や手榴弾を手に8月1日蜂起を開始。

 

ソ連軍は来なかった。

10月2日、22万人の市民が犠牲になりワルシャワ蜂起は

終わる、ドイツの懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底的に

破壊された。

ソ連が来たのは年が変わって45年の1月、そして

廃墟と化したワルシャワを占領した。

 

さて食事の時間だ。

初めてのワルシャワのクリスマスマーケットは、思ったより

盛大で、

町の複数箇所で開催されていた。

王宮の広場がメインだろうか、沢山の屋台と人で

賑わっていた。

ホットワインにホット洋梨リキュール(プンシュ)、

スモークチーズは焼きたてに木苺のジャムで食べる。

羊の国の羊毛スリッパ。

花の多いポーランドのクリスマス市。

自由食の今日、屋台のソーセージでも良かったが、

つまらぬ仕事の書き物があり(空いている)カフェを探す。

特にポーランド的でもない物とコーヒーでテーブルを確保。

外に出ると、美しいワルシャワの町並みに写真を撮る。

さっきも同じ所から撮った気がしたが、

何度見ても美しいのだ。

戦後ヨーロッパの町の多くは、古い設計図をかき集め

町を再建したというが、

ワルシャワは爆弾に火炎放射機で、紙一つ残っていなかった

という。

ジグムント3世の時代から積み上げてきた歴史は、市民の

記憶の中で再建され、今完璧に蘇っている。