さて、先日の教会で聴いた説教のお話しを致します。
今回は、クリスマスということもあり、主イェス=キリストの誕生の話でした。
この日は「言(ことば)は肉になった」、これだけ覚えてくれればよいとのことでした。
聖書の箇所は新約聖書、ヨハネによる福音書1章1節~14節です。
これは、主が地に降り、私たちと同じ人間として現れた(目に見えるものとなった)ということを意味します。
これが、クリスマスを祝う理由なのであります。
ところが・・・
ニッポンではクリスマスが行事的、情緒的なものに成り下がっている、という指摘がありました。
観賞のため、営利のためのものとなっているのが現状です。
例えば新浦安のアトレでは、クリスマスまでは大きなクリスマス飾りがなされていました。が、それを過ぎると、クリスマスなど存在していなかったかのようにこんどは、大きな門松が出るという変わり身の早さで雰囲気が一変しています。
また、ウルトラマンタロウの第39話でも、クリスマスが過ぎた後だったために、クリスマス飾りがごみとして捨てられている光景がありました。尚、この話はクリスマス~年越しの間の、もちつきの話です。
ましてや、恋人云々ってと大騒ぎするのって何だろう?ということにもつながります。
クリスマスというものを、行事や情緒的なものとして行うにしても、せめてその意味合いとは何か?に興味を持っていただくと、クリスマスへの認識もかなり違ってくることでしょう。
「言が肉になった」のほかに印象的だったのが、
主は私たちのありのままを受け止められている
ということです。
この「ありのまま」というのは、「受容」ということを意味します。
これは、普段のコミュニケーションで特に大切なことであります。
白金の明治学院でも、まさにこの受容により私を支えてくれています。
しかし外に出ると、否定地獄に価値観のぶつかり合い、皮肉や嫌味と、心が折れやすい環境にさらされやすいものです。
こんな状況でありますから、受容が下手な人間ばかりというのも仕方ありません。
だって、自分の都合や考えが優先で、相手の考えを尊重することのかけらすらないんですもの。
特に団塊のじいさんに多いね( ^∀^)
例えば、人から悩みをこぼされたとしたら、励ましや否定(「そんなことない」など)よりも、その時点での話した人の気持ちを受け入れるほうが、その人の心がやすらぐでしょう。
特に「元気だそうよ」とかは、人によっては暑苦しく感じますよね。
白金に通う私としては、「言葉は肉になった」よりも、この「ありのまま」のほうが鮮烈に印象に残りました。
クリスマスの日に、良い説教を聴かせていただきました。
とても有意義な一日になりました。