どうもお久しぶりです。
前回の更新からだいぶ時間がたってしまいました(汗)でも、映画を観てなかったわけじゃありません。海街diaryとかマッドマックスとか素晴らしい映画も見てますよ!ただ、僕は大学生でして試験勉強とかに追われていたというのもあって、ブログを書くのはお休みしていた次第です。(にしては期間開きすぎですね)
なんですが、大学の試験も終わり夏休みに入ったということで、早速ブログを更新したいなと思いました。というのも、昨日『進撃の巨人』の実写版を観てきたんですね。yahooに寄せられる映画の評価がただいま2.17点と低い評価になってるのですが、いやいや、面白かったぞ!!と僕は思ったのでそのことについて書きたいと思います。
その前に内容紹介(シネマトゥデイより)
100年以上前、人間を捕食する巨人が現れ、人類のほとんどが食べられてしまった。生き残った者たちは巨人の侵攻を阻止すべく巨大な壁を3重に作り上げ、壁の内側で暮らしていた。エレン(三浦春馬)やミカサ(水原希子)もそんな中の一人だった。そんなある日、100年壊されなかった壁が巨人によって破壊されてしまう。
話に入る前に、僕は『進撃の巨人』については、マンガもアニメも全く知りません。巨人が人を食うらしい・・・くらいの認識で見に行ったということは先に言っといた方がいいですよね。
それでは、具体的な中身に入っていきたいと思います。これまでも断っていたか覚えてませんが、ネタバレ全開で行きます。
まず、この映画は巨人が出てくるのが早いということを、ひとまず評価してよいと思います。主人公が暮らすモンゼンはどのようなところなのか、どういう暮らしをしているのか、また主人公の性格などをササッと最低限見せたうえで、もう巨人の登場です。映画が始まって何分くらいですかね?多くとも15分はなかったような気がします。観客としては、巨人を見に来てるわけなので、このストーリーテリングの速さはうれしいですよね。そして何より、展開の早さに驚く!始まってすぐに大惨事!最高!!!
そして巨人が壁にあいた穴からのそのそと入ってくるんですが、これまた巨人がキモくて良い!実際の人間の映像を元にしてキモく仕上げているようですね。単に恐ろしい造形ならCGだけでも使ってできると思うのですが、この巨人は実際の人間っぽいところもあるので、怖いだけでなくキモいんです。生理的に拒絶したくなるような巨人が出来上がってるわけですね。CMとかでも自分は見てなかったので、びっくりしました。黒沢清監督の『リアル』に出てきた、フィロソフィカルゾンビを想起しました。
さてその巨人が人間を食っていくわけなんですが、これまた最高な食いっぷり!よりどりみどりといった様子で、次から次へと人間を食っていくのですが、僕が感心したのは人間がムササビ状態になって引きちぎられるのもそうなのですが、ちゃんと血が出るところですね。当たり前のようですが、そこから逃げないでくれたのはうれしかったです。別にグロテスクなのが好きだということではありません。いや正直それもありますが、でも主人公たちはこれから恐怖を徹底的に味わっていくわけです。そうなると血が出てくるのは必須ですよね。でないと観客は、そんな怖くないじゃんと思ってしまいます。観客もまた恐怖におののくように作るべきなのです!上で人が喰われたら、ちゃーんと血が降ってくるべきなのです!一方で、はっきりとした描写は抑えている部分も感じました。ドアの下から血の海が流れてくる演出とか、直接的描写を避けつつも恐怖を感じさせるような工夫もまた面白いと思いました。
とまあ、そんな風に早速大惨事になるのですが、そのまま2年後に話は飛びます。エレンたちは巨人たちの侵入してきた外壁をふさぐための作業員に志願していて、その出征式の場面から始まります。ここなんですが、もうちょっとこの二年間、どういう状況だったのかを知りたいというのは正直あります。食糧難に陥っているとかぼんやりした情報はあるのですが、どのくらい切迫してるのかいまいち伝わってこない。というのはさておき、和気あいあいと(?)壁の修復に向かうのですが・・・
ちょっとこのペースでだらだら話していくと、話したいところに行く前に手がつかれるので(笑)、ぐっと来たところにフォーカスを絞って話したいと思います。(急に雑になるのはいつものこと)
この映画、前篇ということもあって、主人公たちに勝ち目のない状況が続きます。一、二回目の襲撃には、巨人に襲われてもやり過ごすことしかできないわけです。なんですが、最後の最後で、エレンは自分から巨人へ立ち向かいますよね。ここにやはりグッとくるわけです。なんで立ち向かったのかというと、「俺が壁をふさいでやる!!!」というものではもちろんなく、むしろその逆、「オレは家畜のまま終われるかーー!!!!」という思いを持ったからですよね。これまでは壁の中で暮らしてきて、それはそれで安全だったのかもしれませんが、そこに人間としての豊かな暮らしはあっただろうか、家畜と一緒なんじゃないかと、エレンはシキシマに問いかけられます。ここにきて戦いの目的が変わるわけです。そうだ、今俺らがやるべきことは、壁をふさぐことなんかじゃない!むしろその壁を壊して、人間としての尊厳を取り戻すことなんだ!そのために巨人を倒すんだ!ということです。
これって、僕たちの暮らしにも当てはまりませんか。自分で壁を作って、それなりに自分の半径5メートルの世界の中で満足する。そういう生活をしてるとそれなりに安全で安定した暮らしはできるわけです。でもそんな生活っていわば家畜と一緒なんじゃないのか?人間なんだったら「飛べよ、挑戦しろよ!!そこにこそ人間としての尊厳ってもんがあるんだよ!!!」こういうことですよね。僕自身、来年には就活が控えています。安定した道をとるか、挑戦するか、正直悩んでいる部分でもありまして、こういったメッセージにはぐっと来ざるを得ないわけです。やはりこのシーンは絶頂のポイントでしたね。
こうして、戦いの目的が、壁を直して私たちの暮らしを守るため→人間としての尊厳を獲得するためへと変化しました。しかし、そんなに簡単には主人公を勝たせてはくれません。エレンは、いとも簡単に巨人に投げ飛ばされてしまいます。そして、食われそうになっているアルミンを助けるために自分が巨人に飲み込まれてしまいます。絶望のどん底へ落されてしまいます。物語はここで終わってしまうのか?と思いきや、何やら超越的なことが起こりまして、エレンが生きて巨人から出てくるところで前篇は終わります。(ここって、何かロジックがあるのでしょうか。ただメンタルの力!!ってだけだったらさすがに・・・となるのも否めないのですが)
不満を挙げようと思えばいくらでもあげられると思います。そもそも、主人公たちの名前がエレンだのミカサだの、日本人じゃなくない?とか、いやそもそも三浦春馬は少年には見えないんだけど!とかいわば前提の部分が呑み込めないという意見もあると思います。あと巨人の描写も、正直最初の場面はなんか後ろのグリーンバックが見えるというか、グリーンバックから主人公たちが逃げてる風に僕には見えました。(撮影の裏側が見えるということです)他にも、そもそも壁の修復計画お粗末すぎない?そんな「ぷよぷよ」みたいに下がなくなれば上から落ちてくるみたいになるかね?とかあります。
原作ファンにとっては、この映画化には大幅な改変があるためにそこが受け付けないという意見もTwitterやらなんやらでいっぱい見ました。なんか、原作にはない性的なシーンが嫌だみたいなのありましたが、人間生きてりゃセックスくらいするわ!というのだけははっきりと言っときたいと思います。
まあなるほどという意見もあるし、僕は原作を読んでいないので何とも言えない部分があるのは事実です。でも、僕はそういった不満要素をカバーして余りある魅力的な作品だと思いました。あの熱いメッセージは原作にもあるのでしょうか?なんか脚本家の町山臭を感じたのですが(笑)まああるとしても、主人公を弱い人間に改変したことは非常に大きな効果を上げていると思いました。
いつもならここまでなのですが、ここで終わる前に、後編は一体どうなるの??ということで気になることを挙げていきたいと思います。
不安点から挙げていきたいのですが、シキシマのキャラクターについてです。このキャラクターだけやけに超越的に描かれていますが、どうなんでしょう。だって超越的なキャラクターがいれば、主人公たちは絶対に負けないわけですよね。まさか後編も一段上から見下ろすようにエレンたちを観てるだけってことはないよね?でも、シキシマがもし負けて死ぬのならそれはそれで、なんかがっかり・・・ということでこのキャラクターがどうなっていくのか、どう落とし前をつけるのか、なんか不安な気もしますが、注目ですね。
あと、前篇で志願兵たちが「心臓をささげます」的なことを言わされていたと思います。さらに、巨人が襲ってきたとき、お偉いさんたちはさっさと逃げて行ってしまいますよね。これは戦争にも重なると思います。というのも、戦争の一側面として、上の人間が下の人間の命を浪費するという側面があるからです。映画でいうとイーストウッドの『硫黄島からの手紙』を見るとわかると思います。巨人を倒すのはもちろんなのですが、こうした上下の構造に、主人公たちが立ち向かっていく展開になるのか、見どころだと思います。人間の尊厳を取り戻す話としては、欠かせない話だと個人的には思うので、そこは期待です。
他にも気になるところはあります。最後のエレンが巨人に乗り移る展開にロジックがあるのかとかも気になりますし、ミカサはいかにして助かったのか。他にも巨人はいかにしてあらわれたのかとか、どうやって繁殖してるのかなど、どこまでロジックを加えていくのかも見どころだと思います。さらにそもそも壁のない世界を主人公たちが目指すのであれば、巨人は全滅しないといけないわけで、そうしたらこの広い地球、全滅させることって可能なのか?もしかしてヒックとドラゴンみたいに、仲良く共生しよう!的展開になるのか(笑)などですね、楽しみなことはいっぱいあります。
そして何より、どうやって巨人を倒すのか!!見どころですね!
後編への期待に胸をいっぱいにしたところで、さようなら!
今回は韓国映画『海にかかる霧』について書こうと思います。
内容紹介
チョンジン号は一時、大漁に沸いていたこともあったが、最近は不漁続きで船の維持すら難しくなっていた。八方ふさがりの中、船長チョルジュ(キム・ユンソク)と年少の船員ドンシク(パク・ユチョン)を含む乗組員たちは、やむを得ず中国からの密航者たちを乗船させることに。そして決行の日、海上で中国船から密航者を迎え入れるが……。
(シネマトゥデイより)
今後の予定として、観た新作映画は必ずブログに感想を書くかはわからないのですが、とりあえず今回も新作映画を扱おうかと思います。多分、観た映画全部は書かないと思いますが。
さて、『海にかかる霧』の話に入りますが、製作・脚本がポン・ジュノということである程度映画を観ている人だったらこの作品を気にかけているんじゃないかと思います。ポン・ジュノと言えば『殺人の追憶』、『母なる証明』、『グエムル』など、個人的な意見は様々あるとは思いますが、一般には傑作認定されている作品が多いですよね。今最も注目すべきアジアの映画監督の一人だと思います。
ですから、今作はポン・ジュノが監督ではなく制作に回っているとは言っても、監督・脚本は『殺人の追憶』のシム・ソンボさんだし、僕個人としては大きな期待をしていたんです。
ですが・・・・・といった感じ。これまでは(といってもたった3本ですが)絶賛の感想ばかりですが、はじめてネガティブな感想を書くことになることを先に言っておきます。
この話は、極限の閉鎖空間の中で人間の本性がむきだしになっていく話でありまして、まあ言ってみれば、どれだけ人の本性をえぐれるか、本性同士を戦わせられるかが映画のキモとなってくるというのは異論のないことだと思います。
で、この映画はそれをできていないというのが僕の感想です。
物語が大きく展開するのは、魚倉庫に隠れていた密航者たちが、不完全燃焼のガスで全員死んでしまうところです。それ以降、船員たちの恐ろしい部分が表面に出てきます。
まず、ユンソク兄貴演じるチョルジュが、死体を切り刻んで海に捨てろという残酷な命令を船員たちに告げます。船員たちは当然戸惑うわけですが、死体を魚に食わせようという魂胆です。この命令は船員たちを守るという船長としての責任感からくるものだと僕は解釈しました。パンフレットにもそういったことが書いているし間違ってはないと思います。
何ですけど、そのあと、頭がおかしくなってしまったおじいちゃん機関長ワノをチョルジュはあっさりと殺しちゃうんですよ。もちろんこのままワノを陸に連れて行ったら、死体を捨てたことを話されるかもしれないので、殺すことに疑問はないのですが、あまりにもあっさりと殺すんですね。船員を守るために死体を切り刻むことを指示した船長がですよ、ちょっとした気の迷いやためらいを全く見せずに大事な船員をすぐに殺すのはおかしいですよね。矛盾しています。
次に移ります。実は密航者には一人だけ生き残っていた人がおりまして、ホンメという女性なのですが、彼女は新人乗組員のドンシクに気にかけてもらっていたために、魚倉庫には入らなかったため生き残ったんです。そして、彼女の存在が乗組員のチャンウクとギョングの性欲を呼び覚ましてしまうという話の流れになります。まず、船の乗組員は人数が限られているので、性欲要員が2人というのもキャラクターの使い方としてもったいないというのはさておいて、なぜそこまで性欲に固執するのかがよくわからないというのが問題だと思います。この船って別に遭難したわけではないんですよ。だから、陸に戻ったら好きなだけ女の人とセックスすればいいじゃんと思ってしまいます。実際、ギョングは出航前に女の人を連れているシーンがありましたから、別に陸で女の人に困ることもないようです。役者さんの演技の極端さも逆効果を挙げていて、極端であればあるほどこちらは疑問を抱かざるを得なくなっていました。
そして船長チョルジュの話です。彼は、陸に帰したら通報されると思いホンメを殺そうとします。そのために新人ドンシクは彼女を守ろうと奇策として、船を沈没させて自分たちはゴムボートに乗って助かる一方で、チョルジュを船ごと沈めようとします。船を壊されたチョルジュは自分の大切な船を守ろうとするのですが、ここの描写が薄いと思いました。一番初めに書きましたが、この映画は人間の本性を描いてナンボの映画なわけです。にもかかわらずチョルジュは、口では船を守らないと的なことは言ってましたが、態度で見るとあまり本気で船を守ろうとしているようには見えないんです。そして、網に引っ掛かって海に引きずり落とされて死ぬのですが、その死に方もあっさりとしたものでした。「執着」が船に対しても生に対しても希薄に見えていました。まして、この時点で生き残っていたのはドンシクとホンメ、チョルジュの三人なわけで、前者二人はもう結ばれていましたから、いわばチョルジュはラスボスなわけです。ラスボスがこんなあっさり死んでいいんかい!!と突っ込まずにはいられません。しかも、チョルジュはさっきは船員を守ろうとして行動していたかと思えば船員を殺したり、今度は船を守ろうとしてみたり、キャラとして一貫性がないので全体としてぼんやりとした人物になっています。
そして、結局何とか生き残ったドンシクとホンメについてですが、この2人に関しては文句はそんなにはないのですが、この映画を好ましく見ていないからというのもありますが、もうちょっと汚れてもよかったんじゃないかと思います。性欲の怪物を殺したのは確かにドンシクで、チョルジュを船ごと沈めようとしたのもドンシクなので、人を殺してでも愛を守ったという意味で汚れてはいます。ただ、また先ほどの話に戻りますが本性をむき出しにしてナンボなんですよ!!愛する人を守るためには、どんな残酷なことでもするんだと言わんばかりの行動がもう少しあるとよかったですね。たとえば、チョルジュは最終的には自滅していたので、そこをチョルジュを直接的に殺すとか残酷な罠にはめるとかしてほしかったなと思います。でも、他の部分の不満に比べたらややマシではあるし、ないものねだりなのかもしれません。ドンシクを演じているのは元東方神起のアイドルだそうで、あんまり汚れた役をできないという事情もあるんでしょうかねえ。そう考えると、にしては頑張っていた方かもと思ったりもします。
とにかく、この映画を観た感想を一言でいうならば、甘い!!!!ということです。ポイントとしては、嫌い!!ではないということなのですが、「ひょえーーーー!人間って極限になるとこんなことまでしちゃうのかよ―――ー!!」と思わせてほしかったなと。だって『母なる証明』とか本当にひょえーーーーー!!って言っちゃう映画だったじゃないですか。ですが、現在僕の韓国映画への関心はイ・チャンドン制作の『私の少女』に移っています。これまた「制作」というのが気にならなくはないですが、なんといっても主役は韓国映画の枠を超えてウォシャウスキー姉弟の作品にも出ているペ・ドゥナと『アジョシ』のキム・セロンちゃんです。こちらの方に期待しましょう!
内容紹介
チョンジン号は一時、大漁に沸いていたこともあったが、最近は不漁続きで船の維持すら難しくなっていた。八方ふさがりの中、船長チョルジュ(キム・ユンソク)と年少の船員ドンシク(パク・ユチョン)を含む乗組員たちは、やむを得ず中国からの密航者たちを乗船させることに。そして決行の日、海上で中国船から密航者を迎え入れるが……。
(シネマトゥデイより)
今後の予定として、観た新作映画は必ずブログに感想を書くかはわからないのですが、とりあえず今回も新作映画を扱おうかと思います。多分、観た映画全部は書かないと思いますが。
さて、『海にかかる霧』の話に入りますが、製作・脚本がポン・ジュノということである程度映画を観ている人だったらこの作品を気にかけているんじゃないかと思います。ポン・ジュノと言えば『殺人の追憶』、『母なる証明』、『グエムル』など、個人的な意見は様々あるとは思いますが、一般には傑作認定されている作品が多いですよね。今最も注目すべきアジアの映画監督の一人だと思います。
ですから、今作はポン・ジュノが監督ではなく制作に回っているとは言っても、監督・脚本は『殺人の追憶』のシム・ソンボさんだし、僕個人としては大きな期待をしていたんです。
ですが・・・・・といった感じ。これまでは(といってもたった3本ですが)絶賛の感想ばかりですが、はじめてネガティブな感想を書くことになることを先に言っておきます。
この話は、極限の閉鎖空間の中で人間の本性がむきだしになっていく話でありまして、まあ言ってみれば、どれだけ人の本性をえぐれるか、本性同士を戦わせられるかが映画のキモとなってくるというのは異論のないことだと思います。
で、この映画はそれをできていないというのが僕の感想です。
物語が大きく展開するのは、魚倉庫に隠れていた密航者たちが、不完全燃焼のガスで全員死んでしまうところです。それ以降、船員たちの恐ろしい部分が表面に出てきます。
まず、ユンソク兄貴演じるチョルジュが、死体を切り刻んで海に捨てろという残酷な命令を船員たちに告げます。船員たちは当然戸惑うわけですが、死体を魚に食わせようという魂胆です。この命令は船員たちを守るという船長としての責任感からくるものだと僕は解釈しました。パンフレットにもそういったことが書いているし間違ってはないと思います。
何ですけど、そのあと、頭がおかしくなってしまったおじいちゃん機関長ワノをチョルジュはあっさりと殺しちゃうんですよ。もちろんこのままワノを陸に連れて行ったら、死体を捨てたことを話されるかもしれないので、殺すことに疑問はないのですが、あまりにもあっさりと殺すんですね。船員を守るために死体を切り刻むことを指示した船長がですよ、ちょっとした気の迷いやためらいを全く見せずに大事な船員をすぐに殺すのはおかしいですよね。矛盾しています。
次に移ります。実は密航者には一人だけ生き残っていた人がおりまして、ホンメという女性なのですが、彼女は新人乗組員のドンシクに気にかけてもらっていたために、魚倉庫には入らなかったため生き残ったんです。そして、彼女の存在が乗組員のチャンウクとギョングの性欲を呼び覚ましてしまうという話の流れになります。まず、船の乗組員は人数が限られているので、性欲要員が2人というのもキャラクターの使い方としてもったいないというのはさておいて、なぜそこまで性欲に固執するのかがよくわからないというのが問題だと思います。この船って別に遭難したわけではないんですよ。だから、陸に戻ったら好きなだけ女の人とセックスすればいいじゃんと思ってしまいます。実際、ギョングは出航前に女の人を連れているシーンがありましたから、別に陸で女の人に困ることもないようです。役者さんの演技の極端さも逆効果を挙げていて、極端であればあるほどこちらは疑問を抱かざるを得なくなっていました。
そして船長チョルジュの話です。彼は、陸に帰したら通報されると思いホンメを殺そうとします。そのために新人ドンシクは彼女を守ろうと奇策として、船を沈没させて自分たちはゴムボートに乗って助かる一方で、チョルジュを船ごと沈めようとします。船を壊されたチョルジュは自分の大切な船を守ろうとするのですが、ここの描写が薄いと思いました。一番初めに書きましたが、この映画は人間の本性を描いてナンボの映画なわけです。にもかかわらずチョルジュは、口では船を守らないと的なことは言ってましたが、態度で見るとあまり本気で船を守ろうとしているようには見えないんです。そして、網に引っ掛かって海に引きずり落とされて死ぬのですが、その死に方もあっさりとしたものでした。「執着」が船に対しても生に対しても希薄に見えていました。まして、この時点で生き残っていたのはドンシクとホンメ、チョルジュの三人なわけで、前者二人はもう結ばれていましたから、いわばチョルジュはラスボスなわけです。ラスボスがこんなあっさり死んでいいんかい!!と突っ込まずにはいられません。しかも、チョルジュはさっきは船員を守ろうとして行動していたかと思えば船員を殺したり、今度は船を守ろうとしてみたり、キャラとして一貫性がないので全体としてぼんやりとした人物になっています。
そして、結局何とか生き残ったドンシクとホンメについてですが、この2人に関しては文句はそんなにはないのですが、この映画を好ましく見ていないからというのもありますが、もうちょっと汚れてもよかったんじゃないかと思います。性欲の怪物を殺したのは確かにドンシクで、チョルジュを船ごと沈めようとしたのもドンシクなので、人を殺してでも愛を守ったという意味で汚れてはいます。ただ、また先ほどの話に戻りますが本性をむき出しにしてナンボなんですよ!!愛する人を守るためには、どんな残酷なことでもするんだと言わんばかりの行動がもう少しあるとよかったですね。たとえば、チョルジュは最終的には自滅していたので、そこをチョルジュを直接的に殺すとか残酷な罠にはめるとかしてほしかったなと思います。でも、他の部分の不満に比べたらややマシではあるし、ないものねだりなのかもしれません。ドンシクを演じているのは元東方神起のアイドルだそうで、あんまり汚れた役をできないという事情もあるんでしょうかねえ。そう考えると、にしては頑張っていた方かもと思ったりもします。
とにかく、この映画を観た感想を一言でいうならば、甘い!!!!ということです。ポイントとしては、嫌い!!ではないということなのですが、「ひょえーーーー!人間って極限になるとこんなことまでしちゃうのかよ―――ー!!」と思わせてほしかったなと。だって『母なる証明』とか本当にひょえーーーーー!!って言っちゃう映画だったじゃないですか。ですが、現在僕の韓国映画への関心はイ・チャンドン制作の『私の少女』に移っています。これまた「制作」というのが気にならなくはないですが、なんといっても主役は韓国映画の枠を超えてウォシャウスキー姉弟の作品にも出ているペ・ドゥナと『アジョシ』のキム・セロンちゃんです。こちらの方に期待しましょう!
今回はバードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)について書こうと思います。
内容紹介
かつてヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡(ふうび)した俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、落ちぶれた今、自分が脚色を手掛けた舞台「愛について語るときに我々の語ること」に再起を懸けていた。しかし、降板した俳優の代役としてやって来たマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)の才能がリーガンを追い込む。さらに娘サム(エマ・ストーン)との不仲に苦しみ、リーガンは舞台の役柄に自分自身を投影し始め……。
(シネマトゥデイより)
今週、渋谷のシネマライズで観てきました。平日の最後の回に見てきたのですが、相変わらずちょうどいいお客さんの量で、快適に観てきましたよ。スクリーンは大きめですが、近くに人がいると落ち着かない人はやや前の席をとると広々とみることができますよ!!
ざっくりしたストーリーは落ちぶれた人が再起する話ということで、まあ王道の話であり誰もがグッときちゃうよ!!という話ですね。キャスティングが、かつてティム・バートン版のバットマンで主役を張って以来落ちぶれていた(?)俳優、マイケル・キートンを主役にもってきているということで、生々しさがあります。パンフレットを読むと、他のキャストも役者自身と重なる配役になっているということです。もちろんすべての役ということではないですが。
さて、王道のストーリーということなのですが、この映画を最も特徴づけているのは全編ワンカット(風)ということで、舞台のプレビューの直前から初回公演の後までを一続きで見せていきます。このことがもたらす効果というのが興味深いなと思ったので、そのことについて書こうと思います。
結論から書きますと、ワンカットでとることで主観と客観がシームレスにつながっているというのが面白い効果をあげていると思いました。そしてそのことが技術的な面にとどまらず、物語的なカタルシスももたらしていると思います。
まずこの話は、リーガンが楽屋であぐらをくんでパンツ一丁で宙に浮いているショットから始まります。これを見せてまず観客に、この主人公は特殊な能力を持っているのだと知らせるわけです。
さらにみていくと、主人公は物に直接触れなくても動かすことができるようです。その能力を使って気に入らない俳優の頭に照明を落として、役を下ろさせるという暴挙に出ます。
そのあと舞台のプロデューサーが「お前は何をしてるんだ」といさめるのですが、観客としては、あれ?この人だけはリーガンの能力を知っているのかなと思います。ちょっとした引っ掛かりを感じるということです。超能力で落としのだったら、リーガンの仕業とはふつう気づかないからです。
やや飛びますが、エドワード・ノートン演じる天才傲慢俳優マイクが一回目のプレビューを無茶苦茶にした際、怒ったリーガンが楽屋のあらゆるものを超能力を使って壊しまくるという場面があります。その場面をガッツリ映すのですが、しかし他のスタッフやキャストがリーガンの楽屋に様子を見に来ると、カメラに映っているリーガンは自分の手でもって物を壊しています。この場面を見て観客はようやく、そういえば超能力を使っている場面はリーガンが一人で映ってる時しかないような、と気づきます。
もうネタバレしてしまいますが、リーガンの超能力というのは実はリーガンの妄想でして、ここがリーガンの主観にあたります。このシーンでいうと、リーガンが超能力で物を壊しまくる場面(主観)と他の人がリーガンが壊しているのを見ている場面(客観)がワンカットでつながっているんですね。被写体としてリーガンを映しているので、映っているものは全て客観だと思ってみているわけですが、実際はワンカットの中で鮮やかに主客が入れ替わっているのです。ここが僕が面白いと思ったところです。先にあげた二つのシーンも客観的に起こっていること、つまり現実で起こっていることを映していると思いきや実際はリーガンの妄想なわけで、照明を落としたのも何らかの工作をしていたためにプロデューサーにばれたのでしょうね。
ですが強調しておきたいのですが、まだ観客にははっきりと超能力はリーガンの妄想とは示されておらず、主観なのか客観なのかわからず観客は宙ぶらりんのまま放置されており、無意識的にか意識的にかは観客によるでしょうが、思考を促されます。
他にも主客がシームレスに切り替わるシーンがあります。例えば、はっきりとリーガンの目から見た景色を映す主観ショットのカメラのシーンもあります。楽屋から舞台へと歩くシーンですが、そこでもカメラは右に曲がると、実はリーガンは左に曲がっていて、それをカメラが追いかけることで見事に切り替わります。
ただ超能力の場面だけに注目すると、重要なシーンは次の場面。
娘に侮辱され、パンツ一丁で街を歩く羽目になりそれをSNSにアップされるといったひどい仕打ちを様々くらい、底に落ちた主人公が朝に通りで目覚めて立ち上がる場面です。主人公が宙に浮いてある建物の屋上に降り立つのですが、どうやらこれは妄想ではなさそうなのです。目撃した人がいるように描写されますから。しかしそのあと、バードマンになって舞台会場へ飛んでいくという物語上のカタルシスを与えてくれるシーンがあるのですが、どうやらここは妄想のようで実際はタクシーで会場まで来たことが観客だけに示されます。しつこいようですが、ここでも主客の切り替えがシームレスに行われています。それはさておき、となると、さっきの屋上まで宙に浮いたシーンもやはり、リーガンの妄想だったのかと思うのですが、ここは観客にぼかされているようにも感じます。
そして映画のラスト。はっきりしたネタバレは書きませんが、病院の窓からリーガンが飛び降りたのかという描写があります。その後、病室に入ってきた娘が父を捜しに窓の方を覗いて下を見ると、、、、、何もないようだ。そして上を見ると、、、、、、、、。というところで映画は終わります。
この終わり方が見事だなと思ったのです。というのは、先ほどから強調していますが、この映画は主観と客観がシームレスにつながるところが面白いと書いてきました。このことは逆から言うと、シームレスにつながっているとはいえ、主観と客観が分かれているということですよね。だからこそシームレスにつながることで、快感が生まれると思うんです。さらに、この場面は主観なのか客観なのかを観客は考えることになるので、そこで振り回されることが物語の推進力となっています。具体的に言うと、客観は実際に起こっていることで、主観はリーガンが起こっていると思っていることですね。
なんですが、このラストのラストでですね、その先へこの映画はいきます。この主観と客観が初めて一致するんです。いうのも野暮ですが、娘が上を見たということは、実際にリーガンが浮いていたということじゃないですか。しかも!しかも!さらにその先へ!その完全に主観と客観が一致するシーンは実際に映さないんですよ!!!ここが上品だと思いましたね。ふつうは浮いているリーガンだけを映すか、浮いているリーガンとそれを見る娘を映すと思うんです。でもこの映画は、ようやく主観と客観が一致したかと思いきや、最後の最後でそれを見せないんです。
最後の最後を見せないという映画は確かにありますが、主観と客観の初めての一致という意味で最後を見せないというのは初めてだと思います。最初から最後まで、よく練られた映画だと思いましたね。
ということで、まだまだ言いたいことはあるのですがまだ見てない人はぜひ見るといいと思いますよ!全編がコメディなので、湿っぽくならないあたりも好感が持てました。そういえば、アカデミー賞作品賞や監督賞その他を獲得した映画でもあります。おすすめです!!
内容紹介
かつてヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡(ふうび)した俳優リーガン・トムソン(マイケル・キートン)は、落ちぶれた今、自分が脚色を手掛けた舞台「愛について語るときに我々の語ること」に再起を懸けていた。しかし、降板した俳優の代役としてやって来たマイク・シャイナー(エドワード・ノートン)の才能がリーガンを追い込む。さらに娘サム(エマ・ストーン)との不仲に苦しみ、リーガンは舞台の役柄に自分自身を投影し始め……。
(シネマトゥデイより)
今週、渋谷のシネマライズで観てきました。平日の最後の回に見てきたのですが、相変わらずちょうどいいお客さんの量で、快適に観てきましたよ。スクリーンは大きめですが、近くに人がいると落ち着かない人はやや前の席をとると広々とみることができますよ!!
ざっくりしたストーリーは落ちぶれた人が再起する話ということで、まあ王道の話であり誰もがグッときちゃうよ!!という話ですね。キャスティングが、かつてティム・バートン版のバットマンで主役を張って以来落ちぶれていた(?)俳優、マイケル・キートンを主役にもってきているということで、生々しさがあります。パンフレットを読むと、他のキャストも役者自身と重なる配役になっているということです。もちろんすべての役ということではないですが。
さて、王道のストーリーということなのですが、この映画を最も特徴づけているのは全編ワンカット(風)ということで、舞台のプレビューの直前から初回公演の後までを一続きで見せていきます。このことがもたらす効果というのが興味深いなと思ったので、そのことについて書こうと思います。
結論から書きますと、ワンカットでとることで主観と客観がシームレスにつながっているというのが面白い効果をあげていると思いました。そしてそのことが技術的な面にとどまらず、物語的なカタルシスももたらしていると思います。
まずこの話は、リーガンが楽屋であぐらをくんでパンツ一丁で宙に浮いているショットから始まります。これを見せてまず観客に、この主人公は特殊な能力を持っているのだと知らせるわけです。
さらにみていくと、主人公は物に直接触れなくても動かすことができるようです。その能力を使って気に入らない俳優の頭に照明を落として、役を下ろさせるという暴挙に出ます。
そのあと舞台のプロデューサーが「お前は何をしてるんだ」といさめるのですが、観客としては、あれ?この人だけはリーガンの能力を知っているのかなと思います。ちょっとした引っ掛かりを感じるということです。超能力で落としのだったら、リーガンの仕業とはふつう気づかないからです。
やや飛びますが、エドワード・ノートン演じる天才傲慢俳優マイクが一回目のプレビューを無茶苦茶にした際、怒ったリーガンが楽屋のあらゆるものを超能力を使って壊しまくるという場面があります。その場面をガッツリ映すのですが、しかし他のスタッフやキャストがリーガンの楽屋に様子を見に来ると、カメラに映っているリーガンは自分の手でもって物を壊しています。この場面を見て観客はようやく、そういえば超能力を使っている場面はリーガンが一人で映ってる時しかないような、と気づきます。
もうネタバレしてしまいますが、リーガンの超能力というのは実はリーガンの妄想でして、ここがリーガンの主観にあたります。このシーンでいうと、リーガンが超能力で物を壊しまくる場面(主観)と他の人がリーガンが壊しているのを見ている場面(客観)がワンカットでつながっているんですね。被写体としてリーガンを映しているので、映っているものは全て客観だと思ってみているわけですが、実際はワンカットの中で鮮やかに主客が入れ替わっているのです。ここが僕が面白いと思ったところです。先にあげた二つのシーンも客観的に起こっていること、つまり現実で起こっていることを映していると思いきや実際はリーガンの妄想なわけで、照明を落としたのも何らかの工作をしていたためにプロデューサーにばれたのでしょうね。
ですが強調しておきたいのですが、まだ観客にははっきりと超能力はリーガンの妄想とは示されておらず、主観なのか客観なのかわからず観客は宙ぶらりんのまま放置されており、無意識的にか意識的にかは観客によるでしょうが、思考を促されます。
他にも主客がシームレスに切り替わるシーンがあります。例えば、はっきりとリーガンの目から見た景色を映す主観ショットのカメラのシーンもあります。楽屋から舞台へと歩くシーンですが、そこでもカメラは右に曲がると、実はリーガンは左に曲がっていて、それをカメラが追いかけることで見事に切り替わります。
ただ超能力の場面だけに注目すると、重要なシーンは次の場面。
娘に侮辱され、パンツ一丁で街を歩く羽目になりそれをSNSにアップされるといったひどい仕打ちを様々くらい、底に落ちた主人公が朝に通りで目覚めて立ち上がる場面です。主人公が宙に浮いてある建物の屋上に降り立つのですが、どうやらこれは妄想ではなさそうなのです。目撃した人がいるように描写されますから。しかしそのあと、バードマンになって舞台会場へ飛んでいくという物語上のカタルシスを与えてくれるシーンがあるのですが、どうやらここは妄想のようで実際はタクシーで会場まで来たことが観客だけに示されます。しつこいようですが、ここでも主客の切り替えがシームレスに行われています。それはさておき、となると、さっきの屋上まで宙に浮いたシーンもやはり、リーガンの妄想だったのかと思うのですが、ここは観客にぼかされているようにも感じます。
そして映画のラスト。はっきりしたネタバレは書きませんが、病院の窓からリーガンが飛び降りたのかという描写があります。その後、病室に入ってきた娘が父を捜しに窓の方を覗いて下を見ると、、、、、何もないようだ。そして上を見ると、、、、、、、、。というところで映画は終わります。
この終わり方が見事だなと思ったのです。というのは、先ほどから強調していますが、この映画は主観と客観がシームレスにつながるところが面白いと書いてきました。このことは逆から言うと、シームレスにつながっているとはいえ、主観と客観が分かれているということですよね。だからこそシームレスにつながることで、快感が生まれると思うんです。さらに、この場面は主観なのか客観なのかを観客は考えることになるので、そこで振り回されることが物語の推進力となっています。具体的に言うと、客観は実際に起こっていることで、主観はリーガンが起こっていると思っていることですね。
なんですが、このラストのラストでですね、その先へこの映画はいきます。この主観と客観が初めて一致するんです。いうのも野暮ですが、娘が上を見たということは、実際にリーガンが浮いていたということじゃないですか。しかも!しかも!さらにその先へ!その完全に主観と客観が一致するシーンは実際に映さないんですよ!!!ここが上品だと思いましたね。ふつうは浮いているリーガンだけを映すか、浮いているリーガンとそれを見る娘を映すと思うんです。でもこの映画は、ようやく主観と客観が一致したかと思いきや、最後の最後でそれを見せないんです。
最後の最後を見せないという映画は確かにありますが、主観と客観の初めての一致という意味で最後を見せないというのは初めてだと思います。最初から最後まで、よく練られた映画だと思いましたね。
ということで、まだまだ言いたいことはあるのですがまだ見てない人はぜひ見るといいと思いますよ!全編がコメディなので、湿っぽくならないあたりも好感が持てました。そういえば、アカデミー賞作品賞や監督賞その他を獲得した映画でもあります。おすすめです!!
