参考(にした)文献。

ピアジェに学ぶ認知発達の科学(北大路書房、2章後半)


2. 同化と調節

2.3 同化と調節の均衡

『同化と調節は全ての活動に存在しているにしても、両者の割合はさまざまでありうる。』あるときは同化が調節を上回り、あるときは調節が同化を上回る。そしてそれらの割合が安定した均衡状態にあるとき、ピアジェはこれを知的行為と呼んでいる。

『同化が調節を上まわるとき(たとえば、主体のその時々の興味に合った対象の特性しか考慮されないとき)、思考は自己中心的な方向に、あるいは自閉的ですらある方向に展開していく。』例えば子供が貝殻を皿に見立てるような象徴遊び(ごっこ遊び、ままごとなど)をしているときなどがこの例である。

『このような遊びは、表象の始まり(1歳半から3歳頃)に最も頻繁であって、そのあと(多くの場合、調節の割合がいくらか増すコトで、)構築遊びの方向へと発展していく。』構築遊びとは、ものを作る、創造的な遊びを指す。例えば積み木や粘土で何かを作ったりするような遊びである。


『逆に、モデルとなった対象や人物の形や運動を忠実に再生するところまで調節が同化を上まわるときには、表象および感覚運動的行為は模倣の方向へと向かう。』調節とは『同化される対象の影響の下で、同化のシェムや構造が多少とも修正されること』であったのを思い出そう。構造などが修正がされるためには普通、理想的な状況(モデル)が存在し、それを自分に投影する必要があろう。(自分の持っている構造だけでは、どうやっても構造が修正されるコトはあり得ないであろう。)『模倣の方向へと向かう』とは、これを指しているものと考えられる。

『目の前にあるモデルへの調節によって行為による模倣となり、それが次第に延滞模倣(模倣の対象となるモデルが目の前に存在しないときにモデルを再現しようとする行為)へと延長され、最後には内面化された模倣となる。この最後の形態は心像の起源であり、思考の操作性の諸側面とは異なる、形象的なものの起源である。』


最後に、同化と調節とが均衡している場合である。そのようなときには、『遊びや模倣(と心像)とは異なる知的な行為ということができる。』同化が支配的な行為は、創造的、能動的、革新的なものであった。一方、調節が支配的な行為は、模倣的、受動的、保守的なものであった。ゆえに、同化と調節とが均衡している行為とは、外部から得たものを元にして、主体的に外部に働きかけるような行為である。上にも書いたとおり、これが知的行為である。

『子どもの知的発達であろうと大人の科学的思惟であろうと、あらゆる水準にそのような均衡を見出すことが出来る』が、その一方で、『同化と調節との根本的均衡に到達すること、とりわけそれを安定的に維持することは少なからず困難で』もある。


2.4 中心化から脱中心化へ

(この節は、中垣氏(訳者)の解説を主に参考としている。)

『(ピアジェにとって、)認知発達の出発点は、自己と外界との最も直接的な相互作用の面にあり、内化はこの面から出発して自らの行為や思考のメカニズムに入り込み、外化はこの面から出発して現象の背後にある物理的構造に迫っていく。この内化と外化という相補的な2つの過程を含めて、脱中心化の過程という。』

『中心化(あるいは、自己中心性)というのは、自分自身の行為と他者や物の活動との未分化、あるいは自己の視点と他者の視点との未分化から、主体が自分自身の行為や観点を(結果的に)絶対的なものであるかのように捉えること』である。ここを出発点として、自らの認知を認識するメタ認知を獲得する方向(内化)と、自己の視点を絶対視しない客観的なものの見方を獲得する方向(外化)とに成長していく過程が、脱中心化の過程である。


何となく最後が尻切れトンボな気がしますが、これで2章は終了。

3章(次回)は、発達段階に関してです。心理学色々10で結構やっているので、あまり詳しく書くつもりはありません。

参考(にした)文献。

ピアジェに学ぶ認知発達の科学(北大路書房、2章前半)



2. 同化と調節

(心理学色々9 も参考にしていただきたい)


2.1 同化

『どんな行動も、たとえそれがその個体にとって新しい行動であっても、絶対的な始まりをなしているわけではない』。『行動は常にそれ以前のシェム(スキーム)に統合されるのであり、それゆえ行動はすでに構築された構造(反射のような生得的な構造、あるいは以前に獲得された構造)に新しい要素を同化』するのである。

同化と言えば、生物学的には、個体が外部から栄養やエネルギーを手に入れ、それを自己の生命の維持、身体機能の拡充に役立てるコトを指す。ピアジェの言う認知的な「同化」もある点で似ており、客体を主体の行為(シェム)の保存、拡張に役立てようとするものである。

『有機体あるいは主体が刺激に対して感受的であり、それに対して反応することができるというとき、これは、有機体あるいは主体がこの刺激を同化するシェムや構造をすでに所有していることを意味する。このシェムというのがまさに応答能力のことである。』


ピアジェは、次の式で、有機体の同化過程を説明している。

T+I→AT+E

生物学的には、Tは構造、Iは統合される物質あるいはエネルギー、Aは(1より大の係数で)物質の構造や機能の効率化を指し、Eは排除された物質あるいはエネルギーである。

認知的には、Tは構造、Iは刺激、ATはTへのIの同化の結果(刺激に対する反応)、Eは刺激状況において構造から排除されたものを指す。

生物学的な説明は、わかりやすい。例えば米を食べるとすれば、Tは主体、Iは米であり、ATは米を食べるコトでエネルギーを蓄えた主体、Eは排泄物である。

認知的な説明の方は少し難しいかもしれない。心理学色々9で挙げた例(下の※)を用いると、Tは持っている人間像、Iは白色人種に出会うと言う経験で、ATは今まで持っていた人間像(人間の特徴づけとして色は関係ないこと)の再確認、Eは白色人種を知らなかった時点での人間像(この時点ではもしかしたら黄色人種と黒色人種だけが人間だと思っていたかもしれない)となろうか。


※(心理学色々9よりコピペ。下線部が同化の例)

テレビなどがない時代に日本で育った子供は、自分の周りに居る人がだいたい同じような皮膚の色をしているので、人間とはこんな感じの皮膚の色を持つ生物だと思ったとしよう。これが彼が最初に持っていたシェマである。その子供が大人になって、海外へ旅行をしたとする。そこで黒い皮膚を持った人を見たとすると、彼は人間の特徴として皮膚の色は関係ないと言うコトを知る。これが調節である。その後に白色人種を見たとしても、彼は人間を特徴づけるのは皮膚の色では無いと知っているので、相手が人間だとすぐに分かる。これが同化である。


2.2 調節

上に書いた式

T+I→AT+E

のATは、物質の増加、機能の効率化を表わすものだった。つまり、同化では質的変化は起こし得ない。

実際、※の例でも、「黄色人種=人間」と言う構造から、「人間に色は関係ない」と言う構造へと変容する過程(質的変化)は同化に依るものではない。

すなわち、『同化はけっして純粋ではありえず、調節を必ず伴う』のである。調節とは、『同化される対象の影響の下で、同化のシェムや構造が多少とも修正されること』を指す。

『認知的「適応」は、同化と調節との均衡から成り立っている』。



2章を一回で終わらせる予定だったのですが、少し長くなりそうだったので(と言うか私が疲れたので、)一回ここで切ります。次回は2章後半。

ちなみに全部で9章までありますが、途中飛ばす(予定の)章もいくつかあるので、おそらくあと5回くらいで終わると思います。

零れそうな溜め息を何とか飲みこんだ。

もはや何度目かわからないループだ、溜め息を吐いてやる価値さえ無い。


例えば、雨が降れば、大抵の人はそれを鬱陶しがる。

傘を持たねばならず、傘を差さねばならず、ただ鬱陶しいだけ。

しかし、個人のレベルで無くて集団のレベルで見れば、話は変わってくる。

雨が降らなければどれだけ困るコトか、それは、最早論じる必要も無い。


飲みこんでいた溜め息が零れて、思わず舌打ちが続いて出た。

恨めしいと思わずに居られようか、このくだらない毎日を。

ある日は晴れで、ある日は曇りで、ある日は雨で、ある日は嵐で。

そりゃ、よく見れば、違うところもある。

けれど、基本的には、本質的には、何も変わっちゃくれない。

俺と言う存在は、抜け出せないループのただ中にある。


多分、社会的に見れば、こんな腐ったルーティンも必要なんだろう、頭じゃ理解できなくも無い。

俺がどれだけの貢献をしているかは知らないし、知りたくもないが。

それでもやっぱり、溜め息を吐かずには居られない。

俺の人生は、俺にとって、俺に降る雨と大差ない。


もし原始時代に生まれていれば話は変わった。

毎日が生存競争、毎日が死と隣り合わせ。

今日の生が、どうやっても、明日のそれを保証しちゃくれないんだろう。

毎日生きるコトに必死で、こんなくだらないコトを考えたりもしなかったろう。


どうして――、どうして俺は、こんなループのただ中に生まれ落ちたんだ。



ああ、知ってるさ、俺の悩みは贅沢だ。

歴史のどの時代からも羨望の眼差しを投げかけられる中にありながら、暖衣飽食の時代に生まれ落ちておきながら、それを恨めしいと思っているのだから。

知ってるさ、そのくらい。

ああ、勿論知ってるさ、こんなくだらない悩み、すぐに解決できる事も。


色々と思うコトはある。

結論は常に変わらないけれど。

ルーティンを繰り返そう。

ループの中にとどまろう。

雨に打たれ続けよう。

雨を降らし続けよう。


ふぅ――。

再度溜め息を吐いて、思考を止めた。

今日も雨、明日も雨、明後日も雨、毎日が雨。

まぁ、いいじゃないか、そのくらい。

雨の中、傘も差さずに歩く。

止むことも無い、濡れることも無い、雨の中。

零れそうな溜め息を飲み込んで。





たまに来る、「なんか書きたい」欲求が来ちゃいまして。

本当に「なんか」書いてしまいました(ぁ

まぁ、いいや、うん。

不快にさせる文章かもしれないけれど、そこは自己責任で!(ぁ

↑最初に書いておけ

また気が向いたら書きます、需要は少なそうですが。

参考(にした)文献。

ピアジェに学ぶ認知発達の科学(北大路書房、1章)


0. Introduction

上記の参考文献は、Piaget's Theoryの翻訳、解説書である。

読んでなかなか興味深いと思ったので、少しここに書いてみようと思う。

ピアジェの理論と言えば、大雑把にいえば、同化と調節に依るスキーマの変容と、その発達過程が良く知られているのではないかと思うが、実際にこの本を読んでみると、更に深い内容もあったと、私は感じた。

以下、『』で括ったところは全て、上の本より引用しているコトを意味する。



1. 客体への認識

私が自分の本を手に持っているとき、その本は私では無いとわかっている。これは当たり前とも言えよう。では、赤ちゃんが目の前にある積み木を持っているときも、それが自分で無いのは当たり前なのだろうか?あるいは、赤ちゃんが自分の腕を見ているとき、それが自分の体の一部だと言うコトは、果たして当たり前なのだろうか?

ピアジェは『主体と客体との境界は、けっして前もって線引きされているわけでも(なければ)、さらにはその境界が恒常的でもない』と述べている。『認識はその起源に関していえば、客体から生ずるのでも主体から生ずるのでもなく、主体と客体との間の(最初は解きほぐしがたい)相互作用から生ずるのである。』

生まれて間もなくは、自他の境界がはっきりしておらず、主体が客体を客体だと認識できるようになる為には、子供自身の主体的な外部への働きかけや、外部からの積極的なはたらきかけを要するのである。


さて、『認識をこのように捉えるならば、この理論にとって中心的なもう1つの観念へ、つまり、構築という観念へと導かれる。』

「構築」の観念はピアジェ理論の核になる要素の一つで、主体と客体との相互作用の中で生まれる「構造」を創造する過程を指す。例えば、歩くコトが出来るようになったばかりの子供は転ぶコトが多いが、5歳くらいになると、歩くだけで転ぶコトは少ない。それは、歩くと言う行為の構造を子供がほとんど構築しきってしまっているからである。

『構造の構築は、主体の行為の漸進的協応と物理的経験から提供される情報とに同時に依存している。』この例の場合、主体の行為の漸進的協応は、徐々に手足を協応的に動かせるようになるコトを指し、物理的経験とは実際に歩く行為を指していると思われる。



今回はこれだけ。

次回はおそらく二章を全て。

昨日、教育関係の仕事をされている方々とお話をさせていただいた。

そこで改めて大切だと再確認させられたコトや、なるほどと思うコトがいくらかあったので、少し書いておく。


一つ目。教育の可能性に関して。

『「教育のあるべき姿」を論じるときに決定的に欠落してきているのが、「われわれはどういう未来社会を欲するのか」という次元と関わった議論である』(『教育』(広田輝幸)p99)
広田先生はこの本で、「教育は未来の方向性を決めるコトが出来る、だからこそ、我々が教育を論じるならば、そこでどのような未来社会を欲するのかも論じねばならない」と仰っている。

教育者は、医療のように人の寿命を伸ばしたりは出来ないし、学者のように現代の技術を進歩させたりも出来ない。しかし、教育は、個人の未来、社会の未来を左右するものである。

教育者になるコトは実際険しい道のりかもしれないが、改めて教育の可能性を再確認し、やはりこの道を進みたいと思った。


二つ目。学校と塾の関係に関して。

ある知人の塾講師が学校の教員にこんな質問をした。

「学校は、塾と言う存在をどのように思っているのか?(鬱陶しい存在だと思わないのか、と言う意味を込めて)」

すると、その質問をされた先生はこう答えた。

「生徒が学校で習う予定のコトを先に塾で教えるのは、授業がやりにくくなるコトがあるので、あまりしてほしくはない。だから出来るコトなら、学校での学習の場をメインにし、塾はその補習的なコトをしてほしい。けれど、お互いに子供の成長を願っていると言う点では共通しているのだから、もっとお互いに連携出来たらとも思う」

昨日、この話をしたところ、次のような意見を頂戴した。

「その学校と塾の関係は割と出来る生徒に関しての話であって、少し遅れている生徒や出来ない生徒の場合は話が変わってくるのではなかろうか」

言われたら当たり前である。どうにも自分には多角的な視野が足りないようで……。

確かに、出来る生徒と出来ない生徒の場合とで、学校と塾の関係は違ってくるかもしれない。おそらく今後塾の数が減るコトは無いだろうから、学校と塾との関係について、少し考えておく必要があると思った。


三つ目。向上心などに関して。

常に向上心を持っておかなくてはならない。ただ、そのモチベーションを保ち続けるのはなかなか難しい。

だから、どんな動機づけでも良いから、とりあえず向上心を持ち続けられるようにしよう、と。

そのための一つの方法として、「モテたい」と言う動機があっても良いのではなかろうか。そう思う人はきっと自分を磨き続けるであろうから。

動機はどうであれ、向上心を保ち続けられるのなら、それはそれでも構わない。

……これはなかなか私好みの話であって。と言うのは、私は王道を嫌い邪道を好むからである。まさに邪(よこしま)な道でありながら、反社会的でも非社会的でもなく、寧ろ社会的であると言う、素晴らしい道ではないか(何

あいにく周りに女の子は少ないのだが(ぁ



とりあえずこんなところだろうか。

他にもいくつか素晴らしい話を拝聴させていただいたのだろうとは思うのだが、私の足りない頭と酒とのせいでこのくらいしか覚えていない……。

また機会があれば是非飲みに行きたいものである。