最近、色んな事に対して

本当に『どうでも良い』と

思えるようになってきた。

 

誤解して欲しくないのは

『全てがどうでも良い』的な

ネガティブな意味での

『どうでも良い』ではなく、

 

『選択と集中』的なミニマリズム的な

非常にポジティブな意味での

『どうでも良い』だという事。

 

つまり『選択と集中』が進む事で

私にとって重要な対象と

そうじゃない対象が明確になった結果、

(私が選択した対象以外の)

色んな事に対して

『どうでも良い』と思えるようになった

という話です。

 

冷静に頭の中を整理すると

自分にとって大切な物って

ビックリするくらい少ない。

 

世の中は本当に

どうでも良い事だらけだ。

随分と間隔が空いてしまいましたが、

久しぶりにブログを書いてみようと思います。

 

ブログを書かなかったこの数週間

私の内面で色々な事があり

バタバタとしていたのですが、

最近になって

少し落ち着いてきたような気がするので

今日は文章を書いてみています。

 

この数週間の間に

私の内面で起きた事は置いといて

とりあえず、今の私は

『無責任に文章を書きたい』

という衝動にかられています。

 

と言うのも、

大真面目に

世の中に良い影響を与えようと

『自分の中で正しい考え』を

書き続ける事は単純に

『労力の割に効果が小さい』

ような気がしてきたので。

 

大変なんですよ、

自分が正しいと感じてる事

を言語化するのって。

 

同じような事をしようとしてる人なら

共感してもらえると思うのですが

色んな事に気を回す必要があって

何度も何度も書き直しが必要になる。

 

『自分が正しいと感じてる事』

を文章にするだけなら

そこまで丁寧に書く必要もないのでは?

と感じる人もいるのかもしれませんが、

少なくとも私は

『自分が正しいと感じてる事』

として発表するなら

それなりに納得がいく物が書きたい。

 

で、書き直しを繰り返すのですが、

それ自体は別に良いんですよ。

書き直す作業も含めて楽しいから。

 

ただ、色んな事に気をまわした結果

角がとれて『割とよくある文章』

になってしまうのが本当に嫌なんです。

 

別に変人だと思われたいワケじゃない。

凄い人だと思われたいワケじゃない。

ただただ自分が書いた文章が

『エンタメとしてつまらない』のが嫌なんです。

 

最初のアイデアの段階では

もっとエッジが効いてたのに。

 

色んな事に気をまわすと

するっと右から左に流れてしまうような

退屈な文章にどうしてもなってしまう。

 

自分の考えを書くだけのブログなんだから

エンタメとしての価値は

気にしなくても良いのでは?

と思う人もいるかもしれません。

 

でも、『読み物』として世に出してる以上

『書いてる内容の正しさ』より

『エンタメとしての価値』の方が

ずっと大事な気が私はするんです。

 

 

で、発想を変えようと。

 

そもそも『自分が正しいと感じてる事』

を文章にする必要なんてない。

 

エンタメとしてフィクションとして

色んな考えを文章を落とし込む事でも

世の中に影響は与えられる。

 

『私の考えではないですよ』ってフリして

(っていうか、私の考えと違う物も含めて)

エッジが効いた言葉を

架空の人物に言わせる事でも

世の中に影響を与えられるんじゃないか?って。

 

そもそもね、色んな事に配慮しながら

自分なりに綺麗に整理した文章を書いた所で

それを私が期待した通りに

正しく理解してくれる人なんて

あんまりいない事も段々分かってきましたし。

 

だから、虚構としてフィクションとして

架空の人物に『自分の中の尖ったアイデア』

(私にとって正しい考えとは限らない)

を尖ったまま文章にするのもアリなんじゃないかなって。

 

単純に絶対この方が書くのが楽ですし。

 

まあ、文章を読んだだけでは

何をやろうとしてるか分からないでしょうし

次の更新を読んでもらえれば、と思います。

色々考えすぎると

何も書けなくなってしまうので、

とりあえず、今の自分の考えを

無責任に書いてくスタンスに

していこうと思います。

 

もともとそういうスタンスで

始めたブログだったはずですし。

 

正しいモノを書こう、

読んだ人に良い影響を与えよう、

なんて考えてると

何も文章が書けなくなってしまう。

 

本当に自分の考えを

無責任に書いてくので

動物園の動物を見るような感覚で

『へ~こんな考えの人もいるんだな』

って感じで読んでもらえたらと思います。

 

 

さて、今回、私が書きたい事は

『人を嫌う事』についてです。

 

結論から言ってしまえば、

私は『人を嫌う事』に対して

否定的に考える事は

なるべくしないようにしてます。

 

要するに、誰かに対して

『嫌い』という感情を持つ自分

を否定しませんし

その感情を無くそうとも思いません。

 

また、同様に

私の事を嫌ってる人がいても

なるべく気にしないようにしますし、

それを改善しよう

(嫌われない努力をしよう)

とも思いません。

 

何故なら、『人が人を嫌う事』は

とても自然な事で

私達が各々違う個性を持って生きている以上

無くす事は現実的ではないと思うからです。

 

また、『好き』と『嫌い』は

表裏一体のモノで

自分の中の『嫌い』を否定する行為は

自分の中の『好き』を否定する行為と等しく、

幸せに生きる上では

非常に危険な行為だとも思っているからです。

 

ちなみに、

今、世間一般的には

『多様な価値観を認めよう』

という流れになっていますが

 

この言葉の意味は

『どんな価値観の人も嫌ってはいけない』

という意味ではなく、

『どんな価値観の人でも

その人を困らせる事をしてはいけない』

みたいな意味だと私は解釈してます。

 

 

これは『いじめ』とも共通する

私の考えなのですが、

『人が人を嫌うのは当然の権利』

ただ

『どんなに嫌いな人でも

(自分の権利を超えて)

その人を困らせるのは間違ってる』

というスタンスで私は生きています。

 

この場合、難しいのは

『自分の権利はどこまでなのか』の部分なのですが、

書きたいテーマとは少しズレてしまうので

ここを掘り下げる事は今回はしません。

 

 

とにかく私は価値観が合わない人の事を

なんのためらいもなく嫌いますし

そんな自分を正しいと思ってます。

 

私が嫌われるケースも同様です。

 

ただ、その人を困らせるような事を

自分の権利を超えてまでは絶対にしませんし

されるような事があれば間違ってるとも思います。

 

 

また、私のこの考え方は

価値観の多様化が進めば進むほど

大切な考え方だと思っています。

 

価値観が多様化するという事は

誰にとっても『受け入れがたい価値観』

が増えるという事だと思いますから。

 

私の考えでは

『受け入れがたい価値観』を

無理に受け入れようとする事は

単純にストレスですし、

それが仮に上手く出来たとしても

『自分にとって大切な価値観』を

不安定にさせる危険な行為です。

(好きと嫌いは表裏一体だから)

 

 

そもそも以前にも書きましたが

私の考えでは『好き』も『嫌い』も

(価値観そのものも)

自分自身の経験によって

形成されるモノです。

 

ただメガネをかけてる人に

優しくされた経験があるだけで

メガネをかけてる人に

好意的な感情を持ちやすかったり、

 

幼い頃に犬に噛まれた経験があるだけで

小さな子犬さえも怖くなったり、

つまり、好き嫌いの感情や

自分が持ってる価値観などの基準は

『自分が何を経験したか』によって形成される

極めて偏りがある基準でしかありません。

 

要するに『偏見の塊』です。

 

しかし、その偏見こそが

私達の喜怒哀楽を生む

重要な要素であり、

それらを壊す行為は

自分の喜怒哀楽の基準を壊す行為で

幸せに生きようと思うのなら

とても馬鹿げた行為だと

私は思っています。

 

 

ここで私の考えをまとめます。

 

人間の好き嫌いは

その人の経験をもとにした

偏見でしかありません。

 

しかし、その偏見こそが

私達の喜怒悪楽を

生む基準となるので

コントロールしようと

してはいけません。

 

下手にコントロールしようとすると

自分にとって大切な感情さえも

失ってしまう可能性があるので。

 

ただ偏見は文字通り

『偏った見方』なので

『自分の内側でしか成立しない』

と自覚すべきです。

 

誰かに対して自分の好き嫌いを

押し付ける事はしてはいけないし

どんなに自分にとって

不快な感情を抱かせる人間に対しても

その人が困るような事を

自分の権利を超えてしてはいけません。

 

といった所です。

 

今回は本当に私の考えを書くだけで

終わりにしたいと思います。

最近、ほぼ毎日ブログを書いてるのですが

(大半がボツなので更新はあまりしてませんが)

もっと自分の立場に合わせて

文章を書かなきゃいけないのかも

なんて思い始めたりしてます。

 

現時点での私は

ブログを始めたばかりで

フォロワーの数もほとんどいない

無名ブロガーでしかないのに、

 

『ブロガーとしての地位を確立してる人達』と

同じようなスタンスで

何かを提案するような事を書いても

説得力に欠けるかもな、と。

 

そんなスタンスで書くよりも

タイトルに書いたような

『皆がどんな風に考えてるか知らないけど

私はこう考えている』みたいな、

『何が正しいか分からないけど、私はこうです』って

スタンスの方が読みやすいのかな、と。

 

 

ただ長文が自分なりに

上手くまとめられたりすると、

どうしても過剰に自信が湧いてきて

『自分の考えは正しい』

『誰にとっても価値がある』と

思い込み過ぎてしまうんですよね。

 

これって、一人で考え事したり

文章を書いたりするのが好きな人なら

誰でも陥る罠だったりしませんか?

 

ネットでひと昔前に流行った

『オマエがそこまで言うならそうなんだろう、

オマエの中ではな』って

読んだ人に思わせてしまう悲しい罠。

 

私だけですかね?

 

何にしても、

自分が書いた文章を自分で読んで

『説教くさい』と感じる事は

明らかにマイナスだと思うので

もう少し表現を工夫していこうと思います。

今日、私が書きたいのは

『人生の楽しみ方の提案』です。

 

と言っても、

『人生を上手く楽しむ方法』

については私も勉強中で

人に上から『こうした方が良いよ』

なんて言える立場ではないのですが、

 

ある人のある言葉をキッカケに

自分なりに気付けた

人生の楽しみ方があって、

今回はその話を書いてみたいと思います。

 

 

私が気付くキッカケになった言葉、

それはプロゲーマーの梅原大吾さんが

慶應で行った講演の中で話された言葉です。

 

梅原さんはその講演の中で

『どうすれば強くあり続けられるのか』

という質問に対して

『自分を飽きさせない事が大事』

そして、更に

『人が何かに飽きる一番の原因は自分が成長しない事』

『人は成長し続けていればその対象に飽きる事はない』

という趣旨の話をされていました。

(厳密に言うと表現は少し違いますが)

 

 

きっと、ある程度

年齢を重ねた人なら

共感してくれると思うのですが

長く生きていると

何事にも刺激を感じにくくなりますよね。

 

『毎日がつまらない』

というほどではないものの

『心が強く揺さぶられる瞬間』は

若い頃と比べるとどうしても減る。

 

そんな自分に対して、

『色んな経験をしたから仕方ない』

『飽きてしまうのは当たり前』と

考えるのではなく

『若い頃ほど成長してないから

若い頃ほど刺激を感じない』と

考えてみるのはどうでしょう?

 

別に『自分を責めろ』って話じゃ

全然ありません。

刺激的な毎日をおくりたいなら

『自分の成長』を

もっと意識すべきでは、という提案です。

 

 

分かりやすい例え話をすれば、

今からAさんとBさんが二人で

ヨーロッパのプロサッカーリーグの

試合を見るとします。

 

Aさんはサッカーのルールは知っていますが

サッカーにおける細かい技術や

戦術についてはほとんど何も知りません。

ヨーロッパのチームや選手についても同様です。

 

一方、Bさんはサッカーのルールは勿論、

細かい技術や戦術についてもかなり詳しく

ヨーロッパのチームや選手についても

ひとり一人について

詳しく語れるくらいよく知っています。

 

この二人の内

これから見る試合を

より楽しめるのは

どちらの方でしょうか?

 

言うまでもなくBさんですよね。

 

そして、BさんがAさん以上に

その試合を楽しめる理由は

『その試合に対する予備知識が豊富だから』

 

それは言い換えると

BさんはAさんより

自分を成長させているから

その対象を楽しめている。

 

 

こんな話をわざわざしなくても

『知識が多ければ何でも楽しめる』

って事くらい誰でも知ってる

と思う人もいるかもしれません。

 

でも、私達は

TVを昔ほど楽しめなくなったら

『タレントの質が低くなった』

『規制が増えた事でつまらなくなった』

と考えがちではありませんか?

 

流行りの音楽を楽しめなければ

『昔の音楽の方が良かった』と

思いがちではありませんか?

 

本当に今のTVや音楽と比べて

昔のTVや音楽が優れているのでしょうか?

 

今のTVや音楽に対して

新しい知識(人など)を得ようとせず

知識が少ない事でその対象を

十分に楽しむ事が出来てない

(サッカーの話のAさん状態)

だけなのではないでしょうか?

 

成長(知識)の問題じゃなく感受性の問題だ

と考える人もいるかもしれません。

 

でも、その感受性も

『成長していないから

新しい刺激を感じる事が出来ず

刺激が少ない事で衰えていっている』

と考える事も出来ないでしょうか?

 

 

私が書いた考え方は要するに

『良い人生には新しい知識(成長)が常に必要』

って話で、割とよくある話ではあります。

 

でも、今の日本には

『積極的に成長しようとしない人』が沢山いて、

そういう人ほど

人生に退屈してるように見えたので、

そんな人に向けて

この記事が書きたかったんです。

 

 

また、若い世代の間で

『成功しなくて良いから努力したくない』

みたいな考えが流行っているような話を

聞いた事があるのですが、

その考え方に対しても

『努力は成功の為だけにするのではなく

成長の為にもすべきなんだよ』

と言いたかったのもあります。

 

『努力によって成功を得たいかどうか以前に

努力によって成長する事で

より人生を楽しむ事が出来るのだから

努力する事は人生においてとても重要なんだよ』と。

 

よく歌の歌詞の中に

『昨日と同じ今日にウンザリ』

なんてフレーズを見る事がありますが、

それに対して

『昨日と今日が同じように感じるのは

君が成長できていないからかもしれないよ』

と私は思うんです。

 

日々、成長できている人は

同じような毎日の中にも

きっと新しい発見をしているよ、と。

 

最後は偉そうな言い方に

なってしまいましたが、

私が今回書きたかったのはこれで全部です。

 

 

とは言っても、

勿論、今の私が

『常に成長を意識する事で

誰もが羨むような完璧な人生をおくれている』

かというと勿論それほどではありません。

 

でも、きっと多くの人より

自分の成長を意識して

毎日を過ごせていますし、

(実際に色んな事に

チャレンジしてますし

youtubeも何本か動画(声だけ)

を撮って上げた事もあります)

 

そして、その結果、それなりに

満たされた人生をおくれてはいます。

 

皆さん、自分の成長を意識して

毎日を過ごせていますか?

前回、

ややこしい話を書いてみて

自分的にはそれなりに

満足できる物が書けた事もあって

『頑張って、この路線を続けるぞ』

ってテンションで

ここ数日を過ごしたのですが

どうにも上手くいかない。

 

ややこしい話は

話をまとめるのも難しく

結局、書いても書いても

納得できる物にならない。

 

前回、(自分的に)

そこそこの物が書けたのは

たまたまだったのかもしれません。

 

って事で今回は

ややこしい路線は一旦諦めて

素直に今の自分の気持ちを

書いていこうと思います。

 

いや、ホントに

文章を書くのって難しいですよね。

そして、凄く楽しい。

 

でもね、

少し前の記事にも書いたのですが

本当は別に

書きたい事なんてないんですよ。

 

誰かに届けたい

言葉なんてホントは無い。

 

『じゃ、何で書くの?』

って訊かれたら

きっと『書く事自体が楽しいから』

なんだと思います。

少なくとも私の場合は。

 

最近は

(ブログの更新の有無は別にして)

毎日、文章を書いてるので

改めて『自分は書く事が好きなんだな』

実感しています。

 

自分の感覚で言うと

『文章を書くって行為』は

『頭の中を言語で整理する行為』で

もっと抽象的に表現するなら

『自分の頭の中にある

バラバラのジグソーパズルを

少しづつ組んでいくような感じ』

なんですよね。

 

短い文章は

数個のピースが組まれた感じ

長くまとまった文章は

何十個、何百個のピースが

綺麗に組まれてる感じ。

 

本物のジグソーパズルも

上手く組めた時(完成させた時)は

それなりの達成感がありますが、

頭の中のジグソーパズルが

上手く組めた時は

私にとってその何倍もの

達成感が感じられます。

 

本物のジグソーパズルは

『正解の組み方』は一通りしかないけど

頭の中のジグソーパズルは

解釈によって色んな組み方が出来るので

『自分なりの組み方』が出来た時

その達成感も

本物のジグソーパズル以上に

大きいのかもしれません。

 

また、

頭の中のジグソーパズルの組み方は

『その人の世界の見方』に直結してるから

その人のパズルの組み方を見れば

その人がどんな人かも大体分かる。

 

そういう意味で

私は自分という人間を

誰かに知って欲しくて

文章を書いてる

ってのもあるのかもしれません。

 

私はこういう人間ですよって。

 

とにかく

今の私はそんな感じで

毎日文章を書いてます。

『子供達が学校へ通うべき理由』

って何だと思いますか?

 

って言うのも、今の社会構造だと

別に学校に通わなくても

例えば、動画を見る事で

授業の代わりは出来そうですし、

単純に『学ぶ事』だけを目的とするなら

学校なんていらないって考え方も

出来そうですよね?

 

『友達を作る事』が目的だ

って言う人もいるのかもしれませんが

それも別に学校じゃなくても出来るでしょう?

 

私は子供達が学校に行くべき理由って

『社会の理不尽さを学ぶ為』と考えています。

 

言い換えれば

『自分と全く違う価値観に触れ、

その価値観を持った人と

どうやって折り合いをつけるかを

学ぶ為』だと考えています。

 

って言うのも、

社会って理不尽だらけでしょ?

納得がいかない事だらけ。

(自分とは全く違う価値観の人だらけ)

 

でも、社会に出たら

どうにか、それらと折り合いを付けなきゃいけない。

どっちが正しいとか間違いとかじゃないんですよ。

折り合いが付かなきゃ自分の居場所がなくなる。

 

『理不尽な事、理不尽な人と上手く折り合いを付ける能力』

がなければマトモな感覚を持った人は

おかしくなるか、その場所から逃げるかしかない。

 

つまり、鬱になるか、ヒキニートになるか。

(極論を言えば)

 

だから、子供達は学校へ行くべき

だと私は思うんです。

 

社会の理不尽さに慣れる意味でも。

 

特に今の社会構造だと

子供達が触れられる

『自分とは違う価値観の人間』が

少なすぎる。

 

ひと昔前までなら

『頑固で怒りっぽい大人』

が家族にいたり、近所にいたりして

その理不尽な大人の価値観に

触れる機会もあったかもしれませんが、

今じゃそういう事も皆無です。

 

親なんてなるべく

子供に合わせてあげるのが普通ですもんね。

それが悪い事だとも思いませんが。

 

まあ、学校も昔と比べると圧倒的に

個性的な先生は減ってるとは思いますが

それでも子供達が触れる

『価値観が違う大人』として

十分意味があると思いますし、

『価値観が違う』という意味では

クラスメイトや先輩などとの交流も

やはり意味があると思います。

 

社会の一員として働き始める前に

学校で色んな価値観に触れ、

理不尽な思いを経験し、

『世の中って理不尽だらけだな』

ってちゃんと理解し、

『その中で自分の居場所を探さなきゃ』

って思えるようになるべきだと

私は思うんですよ。

 

こういう話をすると

『なに理不尽ありきで話してるんだ』

『理不尽は無くさなきゃダメだろ』

って言う人もいるでしょう。

 

いや、理不尽は絶対になくなりませんよ。

 

だって、価値観は人それぞれだから。

 

アナタにとっての『常識』は

誰かにとっての『理不尽』かもしれない。

逆もまたしかりです。

 

社会が価値観の多様性を認める以上、

絶対に理不尽はなくなりません。

 

自分の事を頭が良いって思ってる人ほど

『論理的に正しい方に合わせろ』

『合理的な方が正しいに決まってる』

って勘違いして

『理不尽は無くせる』と考えがちですが

その考え方は明らかに間違ってます。

 

こういう話の時に宗教を持ち出すのは

ちょっとズルイですが、

宗教は論理的ですか?

合理的ですか?

そして、宗教は間違ってますか?

 

宗教の話を持ち出さなくても

人の価値観が『論理性や合理性』よりも

その人の『好き嫌い』に

大きく左右されるのは明らかです。

 

例えば、男女の性差について。

 

例えば、男がスカートを穿いてるのを見たら

アナタはどんな感情を抱きますか?

 

民族衣装的なスカートじゃなく

フリフリの可愛いスカートを

中年男性が穿いていたら。

 

世の中の流れ的には

『批判しちゃいけない』って事に

なるんでしょうけど

本心としては良い気分ではないでしょう?

 

この感情に

論理的合理的理由はありますか?

 

ないですよね?

 

つまり、その人の好き嫌いは

その人の価値観に大きな影響を与えるワケです。

 

好き嫌いに関して

もう少しだけ掘り下げます。

 

そもそも人が人や物、文化などを

好きになる(評価する)理由って

論理的や合理的理由ではないですよね。

 

アナタにとってアナタの家族が

特別な存在なのは

合理的理由などないはずです。

 

何故なら、人間(動物も)が

『好き』『嫌い』を判断する上で

最も重要視しているのは経験だから。

 

つまり、アナタにとって

アナタの家族が特別なのは

『家族と過ごした素晴らしい経験』

があるから。

 

この辺はまた別の機会に

詳しく書くつもりですが、

 

人の好き嫌いは

その人が経験した過去に

大きく左右されます。

 

幼い頃、犬に噛まれた経験が

人を犬嫌いにさせます。

 

スカートを穿いた素敵な女性を見た経験が

『女性にはスカートが似あう』と判断させ

男がスカートを穿く事に対して

嫌悪感を抱かせます

 

例を二つ挙げましたが、

人間の好き嫌いは

日常の小さな経験の積み重ねで

形成されていきます。

 

つまり、同じ経験を

皆が積み重ねない限り

皆、好き嫌いはバラバラになります。

 

好き嫌いは正しい間違いとは

厳密には違うモノですが

繰り返し書いてるように

価値観に大きな影響を与えます。

 

アナタと誰かの価値観が違うのは

『経験の違い』によるモノも

実は小さくありません。

 

ですから、『どんな価値観が正しい』

『どんな価値観が間違い』

って議論する事自体が愚かです。

 

『正義と対立するのは

悪ではなくもう一つの正義』

みたいな言葉もありますが、

『アナタの価値観と対立するのは

間違った価値観ではなく

もう一つの正しい価値観』

とも言えるワケですから。

 

誰もが『自分が正しいと思う生き方』を

すれば良いだけです。

(勿論、極端すぎる価値観は批判されるべきですが)

 

長々と説明しましたが、

要するに社会の理不尽さ

(価値観の対立)は

絶対になくならないんですよ。


また子供達にとって

『社会の一員になる時』は

『自分より上の世代の人だらけの世界に入る時』でもあり

もしかしたら、

『人生で一番理不尽を感じやすい時』

かもしれませんよね。

 

世代が違う事で経験の違いが生まれ

その経験の違いから価値観の違いも生まれ

『社会人一年生』が

社会の先輩達との価値観の違いから

感じる理不尽の数も質も

相当なレベルになるでしょうから。

 

実際、『それなりに優秀な子供』が

社会に出て理不尽に叩きのめされて

そのままヒキニートへ

なんて事もよくある話ですし。

 

そもそも今の多くの学校は

『子供達にとってより良い学校である事』を

大きな目的の一つにしているように見えますが

社会の一員として参加するようになる『会社』は

『社員にとってより良い会社である事』を

そこまで優先していませんから。

(建前上はどうあれ)

 

いずれにしても、学校で色んな価値観に触れ

理不尽な経験をし

その理不尽に自分の中で

ちゃんと折り合いが付けられるようになる事

って社会の一員として生きる上で

めちゃくちゃ大事な事だと私は思うんです。

 

理不尽な人間に従えって話じゃありません。

世の中は理不尽だらけだから

対処法(上手くかわす方法)を身に付けなきゃシンドイ

って話です。

 

ちなみに、私自身は

それが分からず大学を中退した人間です。

『世の中なんてクソだし

こんな世の中で一生懸命なにかするとかアホらしい』

って思ってた人間です。

 

まあ、今ではそれら全て含めて

良い思い出ですが

私が経験した失敗を同じように

誰かが経験するのを避けられたら

なんて思って、こんな事を書いてみました。

 

あ、今でも私は『世の中なんてクソ』

って思ってますよ。

 

でも、当時と違うのは

『このクソみたいな世の中で

少しでも楽しく毎日が過ごせるように頑張る』

って思うようにはなりました。

 

『よくよく考えたら

世の中の理不尽なんて絶対なくならないし

それを全部分かった上で

自分の為に自分に出来る事を精一杯しよう』って。

 

で、最後にタイトルにある

フォレストガンプって映画の話を少々。

 

この映画ざっくり説明すると

主人公はちょっとトロイ男の子で

その子の幼馴染の女の子は

対照的にとても優秀で何でも出来る。

 

そんな二人がどんな人生を過ごすかで

映画は構成されていて、

 

主人公の男の子は

ちょっとオツムが弱いけど

身体能力には長けていて真面目で努力家で

言われた事を何でも素直に愚直に続けるので

(身体能力の高さもあり)色んな事で成功する。

 

一方、女の子の方は

小利口な分だけ『社会に対する抗議活動』

などに人生の多くを使い

結局、最終的にはドラッグか何かにはまる。

 

一回しか見てないし、

見たのは相当昔なので

色々間違ってるかもしれないけど

ざっくりそんな映画です。

 

で、要するにこの映画っておそらく

『小利口な人間が世の中の不満と戦って生きるより

馬鹿でも周りに求められる事を全力で頑張って生きる方が幸せ』

みたいな事だと思うですよ。

 

で、この記事で言いたかった事も同じ。

 

私を含めてほとんどの人間は

(この映画の小利口な女の子も)

世の中を変える力なんてない。

 

だったら、

世の中の理不尽さに唾を吐きながらでも

自分に出来る事を精一杯やって

誰かの役に立とうとする事の方が

良い人生を過ごせそうではないですか?

って話です。

 

そして、そんな生き方をするには

『学校で理不尽さに慣れておく必要』

(色んな価値観に触れておく必要)

があるのでは、って話です。

 

自分なりに『理不尽の対処法』

を確立できていない状態で

社会に出ても鬱になったり

ヒキニートになる可能性が高いので。

 

最後に誤解がないように

言っておきたいのですが、

『学校は理不尽な方が良い』

とは私は言ってませんからね。

 

子供達にとって、少しでも学校が

理不尽さを感じにくい場所である方が良い。

 

でも、理不尽は絶対になくならないし、

まして、学校のルールは

大人達の都合で作られますから

大人にとってどうあれ

子供達は理不尽だと感じるでしょう。

 

そして、その理不尽と向き合い、

その対処法を自分なりに

確立する場所として

学校は重要な役割を果たしているのでは

という話です。

何度も書いてますが、

このブログは当面

『息を吸うように文章を書けるようになる』

を事を目的に続ける予定です。

 

ですから、内容なんて二の次で

自分の頭の中を過不足なく言語化できれば

私的には十分です。

 

十分なのですが、

そろそろ、言いたい事をタイトルにして

それを簡潔にまとめた記事も

ちょいちょい上げてく事にします。

 

それだけで続けられれば

それが一番ですからね。

 

で、これを機に過去の記事

(息を吸うように文章を書く事を目的とした記事)

のタイトルに『練習』という言葉を付ける事にします。

 

タイトルを見ただけで

これは練習なのか読む価値ないな、

って分かるように。

 

いや、読む価値ないかどうかはアレですけど、

まあ、そんな感じです。

タイトルについてもっと気にした方が良いような気がしてきた。

勿論、言うまでもなく大切なのは内容なのだが、

タイトルが悪ければ内容を読んでもらえる事すらないので

今までのように何も考えずに

タイトルを付けるのは止めようと思う。

 

と言うか、今までは

最初にタイトルを決めて書き始めてたので、

若干内容と合わないタイトルになってた時もあったし、

先に文章を全部書いてから

ちょっとでも興味を惹きそうなタイトルを考える事にする。

 

勿論、そんなに時間をかけて考える気はない。

今までが適当すぎたので

もう少し考えてタイトルを付けようって思っただけ。

それは『息を吸うように文章が書けるようになる為』

 

最終的にはコンテンツとして魅力的なモノになれば、

という気持ちはあるものの

現時点では単純に沢山文章を書いて

『自分はどんな文章が得意なのか』を探してる。

 

だから、当然、文体なども

状況によって変化しうるし、

言ってる内容も変わるかもしれない。

 

このブログを立ち上げた当初は

最初の方にも書いてるように

もっともっとフランクに文章を書く予定だった。

 

でも、実際に書いてみると、

『感情を乗せて文章を書く』のは

案外メンドくさい。

 

機械的に感じた事を感じたままに

変に色付けずに(感情を乗せずに)

文章にする方が圧倒的に書くのが楽。

 

また、文章したい対象も

書き続ける事で変化した。

 

元々、私は理屈をこねくり回すのが好きな人間だったが、

その部分はブログなどの

キッチリとした文章を書く場所では

あまり全面に出さない方が良いと思っていたが、

これも変化した。

 

今の私の感覚だと

『自分の中でもっとも興味深い対象を丁寧に言語化する』

のが一番面白い。

 

そもそもが理屈っぽい人間なので

興味を持つ対象もあまり軽いモノではないし

その軽くない対象を

自分が持ってる中で最も適切な言葉で表現しようとするのが楽しい。

 

実際に言語化する事で

対象がより鮮明に見えるような気がするし

対象をより深く理解できるような気もする。

 

私の感覚的にもその歩みは物凄く遅く

『三歩進んで二歩下がる』的なペースだが

少なくとも、確実に前に進んでいる感覚はあるので

そのスピードに関しては今は気にしてない。

 

今は『毎日たくさん文章を書く事に慣れる事』

だけを考えながら毎日文章を書いてる。

 

コンテンツとしての魅力云々を考えるのは

その能力が十分についてからで良い。