『子供達が学校へ通うべき理由』
って何だと思いますか?
って言うのも、今の社会構造だと
別に学校に通わなくても
例えば、動画を見る事で
授業の代わりは出来そうですし、
単純に『学ぶ事』だけを目的とするなら
学校なんていらないって考え方も
出来そうですよね?
『友達を作る事』が目的だ
って言う人もいるのかもしれませんが
それも別に学校じゃなくても出来るでしょう?
私は子供達が学校に行くべき理由って
『社会の理不尽さを学ぶ為』と考えています。
言い換えれば
『自分と全く違う価値観に触れ、
その価値観を持った人と
どうやって折り合いをつけるかを
学ぶ為』だと考えています。
って言うのも、
社会って理不尽だらけでしょ?
納得がいかない事だらけ。
(自分とは全く違う価値観の人だらけ)
でも、社会に出たら
どうにか、それらと折り合いを付けなきゃいけない。
どっちが正しいとか間違いとかじゃないんですよ。
折り合いが付かなきゃ自分の居場所がなくなる。
『理不尽な事、理不尽な人と上手く折り合いを付ける能力』
がなければマトモな感覚を持った人は
おかしくなるか、その場所から逃げるかしかない。
つまり、鬱になるか、ヒキニートになるか。
(極論を言えば)
だから、子供達は学校へ行くべき
だと私は思うんです。
社会の理不尽さに慣れる意味でも。
特に今の社会構造だと
子供達が触れられる
『自分とは違う価値観の人間』が
少なすぎる。
ひと昔前までなら
『頑固で怒りっぽい大人』
が家族にいたり、近所にいたりして
その理不尽な大人の価値観に
触れる機会もあったかもしれませんが、
今じゃそういう事も皆無です。
親なんてなるべく
子供に合わせてあげるのが普通ですもんね。
それが悪い事だとも思いませんが。
まあ、学校も昔と比べると圧倒的に
個性的な先生は減ってるとは思いますが
それでも子供達が触れる
『価値観が違う大人』として
十分意味があると思いますし、
『価値観が違う』という意味では
クラスメイトや先輩などとの交流も
やはり意味があると思います。
社会の一員として働き始める前に
学校で色んな価値観に触れ、
理不尽な思いを経験し、
『世の中って理不尽だらけだな』
ってちゃんと理解し、
『その中で自分の居場所を探さなきゃ』
って思えるようになるべきだと
私は思うんですよ。
こういう話をすると
『なに理不尽ありきで話してるんだ』
『理不尽は無くさなきゃダメだろ』
って言う人もいるでしょう。
いや、理不尽は絶対になくなりませんよ。
だって、価値観は人それぞれだから。
アナタにとっての『常識』は
誰かにとっての『理不尽』かもしれない。
逆もまたしかりです。
社会が価値観の多様性を認める以上、
絶対に理不尽はなくなりません。
自分の事を頭が良いって思ってる人ほど
『論理的に正しい方に合わせろ』
『合理的な方が正しいに決まってる』
って勘違いして
『理不尽は無くせる』と考えがちですが
その考え方は明らかに間違ってます。
こういう話の時に宗教を持ち出すのは
ちょっとズルイですが、
宗教は論理的ですか?
合理的ですか?
そして、宗教は間違ってますか?
宗教の話を持ち出さなくても
人の価値観が『論理性や合理性』よりも
その人の『好き嫌い』に
大きく左右されるのは明らかです。
例えば、男女の性差について。
例えば、男がスカートを穿いてるのを見たら
アナタはどんな感情を抱きますか?
民族衣装的なスカートじゃなく
フリフリの可愛いスカートを
中年男性が穿いていたら。
世の中の流れ的には
『批判しちゃいけない』って事に
なるんでしょうけど
本心としては良い気分ではないでしょう?
この感情に
論理的合理的理由はありますか?
ないですよね?
つまり、その人の好き嫌いは
その人の価値観に大きな影響を与えるワケです。
好き嫌いに関して
もう少しだけ掘り下げます。
そもそも人が人や物、文化などを
好きになる(評価する)理由って
論理的や合理的理由ではないですよね。
アナタにとってアナタの家族が
特別な存在なのは
合理的理由などないはずです。
何故なら、人間(動物も)が
『好き』『嫌い』を判断する上で
最も重要視しているのは経験だから。
つまり、アナタにとって
アナタの家族が特別なのは
『家族と過ごした素晴らしい経験』
があるから。
この辺はまた別の機会に
詳しく書くつもりですが、
人の好き嫌いは
その人が経験した過去に
大きく左右されます。
幼い頃、犬に噛まれた経験が
人を犬嫌いにさせます。
スカートを穿いた素敵な女性を見た経験が
『女性にはスカートが似あう』と判断させ
男がスカートを穿く事に対して
嫌悪感を抱かせます
例を二つ挙げましたが、
人間の好き嫌いは
日常の小さな経験の積み重ねで
形成されていきます。
つまり、同じ経験を
皆が積み重ねない限り
皆、好き嫌いはバラバラになります。
好き嫌いは正しい間違いとは
厳密には違うモノですが
繰り返し書いてるように
価値観に大きな影響を与えます。
アナタと誰かの価値観が違うのは
『経験の違い』によるモノも
実は小さくありません。
ですから、『どんな価値観が正しい』
『どんな価値観が間違い』
って議論する事自体が愚かです。
『正義と対立するのは
悪ではなくもう一つの正義』
みたいな言葉もありますが、
『アナタの価値観と対立するのは
間違った価値観ではなく
もう一つの正しい価値観』
とも言えるワケですから。
誰もが『自分が正しいと思う生き方』を
すれば良いだけです。
(勿論、極端すぎる価値観は批判されるべきですが)
長々と説明しましたが、
要するに社会の理不尽さ
(価値観の対立)は
絶対になくならないんですよ。
また子供達にとって
『社会の一員になる時』は
『自分より上の世代の人だらけの世界に入る時』でもあり
もしかしたら、
『人生で一番理不尽を感じやすい時』
かもしれませんよね。
世代が違う事で経験の違いが生まれ
その経験の違いから価値観の違いも生まれ
『社会人一年生』が
社会の先輩達との価値観の違いから
感じる理不尽の数も質も
相当なレベルになるでしょうから。
実際、『それなりに優秀な子供』が
社会に出て理不尽に叩きのめされて
そのままヒキニートへ
なんて事もよくある話ですし。
そもそも今の多くの学校は
『子供達にとってより良い学校である事』を
大きな目的の一つにしているように見えますが
社会の一員として参加するようになる『会社』は
『社員にとってより良い会社である事』を
そこまで優先していませんから。
(建前上はどうあれ)
いずれにしても、学校で色んな価値観に触れ
理不尽な経験をし
その理不尽に自分の中で
ちゃんと折り合いが付けられるようになる事
って社会の一員として生きる上で
めちゃくちゃ大事な事だと私は思うんです。
理不尽な人間に従えって話じゃありません。
世の中は理不尽だらけだから
対処法(上手くかわす方法)を身に付けなきゃシンドイ
って話です。
ちなみに、私自身は
それが分からず大学を中退した人間です。
『世の中なんてクソだし
こんな世の中で一生懸命なにかするとかアホらしい』
って思ってた人間です。
まあ、今ではそれら全て含めて
良い思い出ですが
私が経験した失敗を同じように
誰かが経験するのを避けられたら
なんて思って、こんな事を書いてみました。
あ、今でも私は『世の中なんてクソ』
って思ってますよ。
でも、当時と違うのは
『このクソみたいな世の中で
少しでも楽しく毎日が過ごせるように頑張る』
って思うようにはなりました。
『よくよく考えたら
世の中の理不尽なんて絶対なくならないし
それを全部分かった上で
自分の為に自分に出来る事を精一杯しよう』って。
で、最後にタイトルにある
フォレストガンプって映画の話を少々。
この映画ざっくり説明すると
主人公はちょっとトロイ男の子で
その子の幼馴染の女の子は
対照的にとても優秀で何でも出来る。
そんな二人がどんな人生を過ごすかで
映画は構成されていて、
主人公の男の子は
ちょっとオツムが弱いけど
身体能力には長けていて真面目で努力家で
言われた事を何でも素直に愚直に続けるので
(身体能力の高さもあり)色んな事で成功する。
一方、女の子の方は
小利口な分だけ『社会に対する抗議活動』
などに人生の多くを使い
結局、最終的にはドラッグか何かにはまる。
一回しか見てないし、
見たのは相当昔なので
色々間違ってるかもしれないけど
ざっくりそんな映画です。
で、要するにこの映画っておそらく
『小利口な人間が世の中の不満と戦って生きるより
馬鹿でも周りに求められる事を全力で頑張って生きる方が幸せ』
みたいな事だと思うですよ。
で、この記事で言いたかった事も同じ。
私を含めてほとんどの人間は
(この映画の小利口な女の子も)
世の中を変える力なんてない。
だったら、
世の中の理不尽さに唾を吐きながらでも
自分に出来る事を精一杯やって
誰かの役に立とうとする事の方が
良い人生を過ごせそうではないですか?
って話です。
そして、そんな生き方をするには
『学校で理不尽さに慣れておく必要』
(色んな価値観に触れておく必要)
があるのでは、って話です。
自分なりに『理不尽の対処法』
を確立できていない状態で
社会に出ても鬱になったり
ヒキニートになる可能性が高いので。
最後に誤解がないように
言っておきたいのですが、
『学校は理不尽な方が良い』
とは私は言ってませんからね。
子供達にとって、少しでも学校が
理不尽さを感じにくい場所である方が良い。
でも、理不尽は絶対になくならないし、
まして、学校のルールは
大人達の都合で作られますから
大人にとってどうあれ
子供達は理不尽だと感じるでしょう。
そして、その理不尽と向き合い、
その対処法を自分なりに
確立する場所として
学校は重要な役割を果たしているのでは
という話です。