私の考えでは

『ありのままの世界はほとんど何の色も無い世界』で

人間以外の動物はほとんど色の無い世界に生きて

『世界にはほとんど色など無い』と感じている。

 

勿論、これは比喩的な表現で『実際の色』の話ではない。

ここで言う『色』とは『感情』や『感覚』の事。

 

つまり、私の考えでは人間以外の動物は

ほとんど感情や感覚を持たずに生きている。

 

感情や感覚を持っていない、とは言ってない。

それが人間と比べて圧倒的に小さい。弱い。

 

昨日の記事で、私は

人間が他の動物と圧倒的に違う部分の一つに

『事実と事実の間を埋める能力』がある。

と書いた。

 

この能力こそが人間だけが持つ特殊な能力で

この能力のお陰で私達人間は

他の動物と比べて圧倒的に多種多様な

感情や感覚を持つ事が出来ている。

つまり『色鮮やかな世界で生きる事が出来ている』

 

例えば、今、アナタは宝くじを買い、百万円当たったとします。

おそらくアナタは大喜びするでしょうし、

その使い道について想像を膨らませるでしょう。

 

これが出来るのはおそらく人間だけです。

どんなに利口な動物であろうと

人間以外の動物はこの手の想像がほとんど出来ない。

 

宝くじの仕組み自体を理解できないのもありますが、

これが仮に現金でも同じ事です。

 

目の前に現金が置かれて喜ぶのは人間だけです。

 

勿論、繰り返し学習させる事で

お金は他の物に替える事ができる事

くらいなら理解できるかもしれませんが

それが出来たとして、人間ほどは喜びません。

 

私が言いたいのは

『人間は事実よりも

事実と事実の間を埋める事によって

より大きな感情を生む』

という事です。

 

つまり、目の前に現金が置かれたとして、

事実は『紙切れが置いてあるだけ』です。

 

でも、多くの人間は

それが物やサービスに替えられる事を知っているので、

『どんな物に替えようか、どんなサービスに替えようか』

と色んな想像を膨らませ喜びます。

 

まだ一円も使ってないのに喜ぶんです。

 

冷静に考えたら変な話だと思いませんか?

 

勿論、人間の

『事実と事実の間を埋める能力』

を否定したいワケではありません。

 

それが人間らしさの正体だと思っていますし、

その質が人生の質を決めるとも思ってます。

 

実際、今、先進国にある不幸のほとんどは

『事実と事実の間を埋める能力』の低さ

によって生まれていると私は考えています。

 

例えば、今、日本に生きている人の中に

飢えている人や暑さ寒さに苦しんでいる人、

寝る場所が無い、寝る環境が無い

なんて人がどれだけいるでしょうか。

 

勿論、いない、と言うつもりはありません。

そりゃ、いるでしょう。

でも、ごくごく少数で

今、日本に生きていて『不幸を感じている人』

の大多数はそれ以外の部分に

不幸を感じているのではないでしょうか?

 

つまり、言い換えれば

事実以外の部分、自分の想像だったり、解釈だったり

によって不幸を感じているのではないでしょうか?

 

今の日本に生きて、そんなにお金が必要ですか?

何故、成功しなければ幸せではないとアナタは感じるのですか?

友達がいない人生は本当に不幸ですか?

恋人や家族がいない人生は本当に不幸ですか?

 

それら全ての不幸はアナタの中で作られた不幸ではありませんか?

 

 

今日はこれくらいで終わりにします。

私は同じテーマについて

繰り返し文章にする事で

その解像度を上げる事が好きだ。

 

客観的に見れば

『同じ事をちょっとだけニュアンスを変えて書いてるだけ』

にしか見えないかもしれないが、

私の感覚では、それを繰り返す事でしか

その対象への理解が深まる事はない。

 

同じ対象を色んな角度から見る事で

少しづつ、その解像度を上げる感覚。

 

例えば、

『事実と事実の間をどう埋めるかでその人の魅力は決まる』という表現は

『考え方や人間性でその人の魅力が決まる』と意味合いは同じ

と感じる人もいるかもしれない。

物凄く普通の事をややこしい言い回しにしただけ、と。

 

私の言い分としては『考え方』や『人間性』は

とても抽象度が高い言葉だから

『事実と事実の間をどう埋めるか』という言葉の方が

よりその対象を高い解像度で見れて、理解しやすいように感じる。

 

実際、『考え方を変える』や『人間性を変える』より

『事実と事実の間の埋め方を変える』と表現した方が

ほんの少しだけアプローチしやすいように思う。

このブログにおいて私が重要視しているのは

『その瞬間に私が感じた事を過不足なく言語化する事』

統一感なんて全く意識していない。

 

だから、今後も以前書いたような

『関西弁丸出し』の文章を書くかもしれないし

今よりずっと固い語り口で文章を書くかもしれない。

 

『真面目になり過ぎて読みにくくなる事』は

なるべく避けたいと思っているし、

誰かや何かを批判する内容も

なるべく避けたいと思ってる。

 

意識してるのはそれくらいで、

感じた事を感じたままに書き殴る予定だし、

それが理想だとも思ってる。

このブログは当面『自分らしさ』だけを追い求める。

『このブログを読んでいる誰か』を意識する事はしない。

まず、自分のフォームをしっかり固める事をしたい。

 

ただただ自分の頭の中を言語化するだけ。

『そんなモンに誰も興味ないよ』

って考える人の方がきっと多いと思うが、俺の読みは違う。

 

『現時点でのこのブログの価値』云々とは別の話として

『自分の頭の中を上手く文章に出来る事』は

十分に人気コンテンツになりうると俺は考えている。

 

と言うより、『各々が頭の中で考えている事』こそが

その人の個性であり、その人の魅力で、

それをコンテンツに乗せる事がエンタメだと俺は思っている。

 

少しややこしい話をします。

 

人間が他の動物と圧倒的に違う部分の一つに

『事実と事実の間を埋める(つなぐ)能力』がある。

 

それは一般に『想像』『妄想』『推測』『解釈』『分析』等と

表現されたりするが、基本的には同じモノで

事実と事実の間を各々が頭の中で埋めている。

 

『事実と事実の間をどう埋めるか』

が人によって違い、その埋め方によって

『想像』『妄想』『推測』『解釈』『分析』などと分けられているだけ。

 

例え話をしよう。

今、アナタはAさんに缶コーヒーを奢ってもらった

という事実があったとする。

そして、『何故奢ってくれたか』は明確には分からなかったとする。

 

『普段、Aさんの仕事を手伝ってるからだな』

これはアナタの想像だ。

勿論、正解の可能性も十分にある想像だ。

 

『もっと仲良くしようぜって意思表示かも』

これも想像。

 

『飲みたいコーヒーと違うコーヒーを間違えて買ったのかも』

これも想像。

 

この場合、アナタが知っている事実は

『Aさんに缶コーヒーを奢ってもらった』という事実だけ。

なのに、アナタは『その理由』を無意識に探し、

色んな過去の事実とコーヒーを奢ってもらった事実の間を

『事実以外の何か(想像など)』で埋める。

 

それはアナタに限った事ではなく、誰もがそうする。

 

そして、その埋め方こそが

その人の個性であり、その人の魅力。

そこに違いがあるから

人気者とそうでない者に分かれる。

 

同じ事実

(Aさんに缶コーヒーを奢ってもらった)

を知ったとして、

『事実以外の何か』で頭を埋める方法は人それぞれ。

 

他の例を挙げよう。

ヤフーニュースやyoutubeコメント欄を見ても

その感想は様々。

そして、その感想に対する評価もまた様々。

 

『文章としての読みやすさ』は

勿論、全く別の要素としてあるが、

その感想に対する評価は

『その人の頭の中の想像、解釈の評価』

とも言えて、言い換えれば

その人の個性、その人の魅力に対する評価でもある。

 

長々と回りくどい話をしたが

俺が言いたいのは

『事実と事実の間をどう埋めるか』で

その人の魅力は決まる、という話。

 

つまり俺は

『事実と事実の間を上手く(魅力的に)埋める人』になりたいし

そうなれたなら、

頭の中を言語化するだけのブログも

十分人気コンテンツになりうる、と思っている。

何となく方向性が見えてきた。

一番大事にしたいのは自分らしさで、

『客観的にどう見えるか』は当面気にしない。

 

今、現在の自分の気持ち、感覚を

『過不足なく表現できる』のが理想。

 

事実や本質より感覚。

『何があったか』なんて文章にしてもしょうがない。

 

『自分』というフィルターを通して

『それがどう見えたか』が大事。

つまり、『事実や本質を伝えようとし過ぎる』

という行為が実は間違ってる。

 

『自分が言いたい事』『伝えたい事』は本来、

事実や本質ではないはず。

人が人に伝えたいのはあくまで『感覚』

 

事実や本質は俺じゃなくても伝えられる。

俺にしか書けない文章を探すのなら

そっちに進むべきじゃない。

 

『自分らしい着眼点』は最大の武器だと思うし、

最大限に使う。

 

でも、それはあくまで『文章を書く上での切り口』で

伝えたいモノとは少し違う。

 

『自分にとって正しいモノ』は

その正しさを説明したくなるが

それこそが俺が一番陥りやすい間違い。

 

『正しいかどうか』はとても大切な要素だが

『キチンと説明するのは骨が折れる』し、

そこを正しく評価できる人間なんて

ホントはごく少数。

 

大半の人は文章を感覚でしか読んでない。

多分、俺自身も。

『感覚的に理解しづらい文章』は

基本的に価値が低いと考えるべき。

 

読む人側に『よし、理解しよう』という

姿勢がないと理解できない文章は

よほど価値がある文章でもなければ

現実的には読まれないし、

それ以上に書きづらい。

 

つまり、

自分が感覚的にスラスラ書ける文章でなければ

スラスラと読んでもらえない。

シンドイ思いをして書いた文章は

シンドイ思いをして読んでもらう必要がある。

 

当面、それは避けよう。

そこで勝負するのは自分らしくない気がする。

 

 

そうそう、youtubeだのnoteだのをちょっとだけやって思ったんやけど、

そもそも『そんなに言いたい事なんて何も無い』んよなw

 

いや、別にニュース見たり、誰かの発言聞いたりしたら

何かしら思う事はあるよ。

最近のニュースで言えば、ダチョウ倶楽部の上島さんのアレとかさ。

 

でも、正直、別にわざわざ文章に書き起こして

ああだこうだ言いたいって事ほどでもないわw

 

何となくふわっと喋るとか書くとかならアレやけど

キッチリ話したりとか書いたりとか疲れるだけや。

 

ホンマにメンドくさい。

そこまで芸能人に興味ないわw

 

でもさ、youtubeで動画ともなれば

それなりに『独自の着眼点で』とか意識するやん?w

ホンマ、アホみたいw

 

何で、別に思い入れがあるワケでもない人の行動を分析したりせなアカンねんw

そもそも一生懸命動画作って再生されたからって何やねんって話やしなw

別に収益化なんて狙ってないし狙えないし

ホンマ無駄に疲れるだけや。

 

いや、分析したりするのは大好きなんよ。

得意やし、自分の人生振り返っても、そこが一番評価された気がするし。

でも、もっともっと無責任にふわっと分析したいわw

 

『あの人、言ってる事、ふわっとしてるけど、結構芯食った事言うよな』

的ポジションが良いわw

 

うん、そこ目指そう。

あんまりマジで分析せんとこう。

 

真面目に語るとかもうええねん。

今年50歳になるオッサンなんだけど、

最近、ずっと『何か始めたいけど何が良いんだろう』的な事ばかり考えてる。

時間的な余裕は結構ある方だと思うし、

ちょっと前に7年くらい続けたニコ生の生主を辞めたのもあるしで、

自分の全力をぶつける場所が欲しい。

 

youtubeもちょっとだけやってみたけど何か違うし

ツイッターもnoteもやってみたけどやっぱり違う。

別に『何か違う』って感じつつ続けるのも全然アリだと思うけど

結局辞めてしまった。

 

ニコ生の生主がかなり楽しかった経験なだけに

『ニコ生の代わり』って探し方をする限り

何をやっても物足りないのかもしれないが。

 

いや、ホントに一生続けようと思ってたからね、ニコ生。

でも、ゴミみたいな荒らしが頻繁に来るようになって

喧嘩もするようになって、結局、過疎って辞めちゃった。

 

まあ、荒らしが来なくても

人は減りつつあったし色々限界だったのかもね。

 

まあ、何にしても、楽しい事を探さなきゃね。

独身のオッサンが一人でってなると難しいから

やっぱりコミュニケーションする類のモンが良いのかな?

 

別にさ、今の『特に夢中になる物は何もない毎日』も

捨てたモンじゃないよ。

そこそこ楽しいし、

一生『夢中になる物』が見つからなくても、そこまで不満はない。

 

でも、せっかく時間もあるし、探したいね。

で、探す事自体を楽しみたいね。

 

俺的にはね、やっぱりカジュアルな方が向いてるような気がするんよ。

お堅い文章とかキッチリ話すとか向いてそうにない。

『言いたい事を短い文章で簡潔に書く力』が

自分に無いとも思わないけど、

『必死になって良い文章を書こうとしてる自分』は

本当の自分ではないような気がするんよね。

 

何て言うんだろ、

『文章全体から伝わる雰囲気』で勝負する方が自分らしい気がするんよ。

 

そうそう、ホントは俺関西人やから関西弁で書くかどうかも

現時点でも決めてないんやわ。

わざわざ読みにくくする意味もないような気もするし、

でも、標準語使ってる自分が嘘くさく感じるのもあるしで

どうするかまだ分からん。

 

やっぱ、普段喋ってる言葉をそのまま文章にした方が良い気もするなあ。

まあ、何にしても、

そんな感じでカジュアルに文章を書いてく事を始めてみるわ。

 

すぐ辞めるかもしれんけどw