瓦 history!? | 城とその町 漫遊記

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ココのところ記事更新していません m(_ _ )m

文才の無さから『瓦』の記事がどうしてもまとまりません

何とかしなければ次に進めそうにも無いので

稚拙で申し訳あけありませんが

無理やり アップしてみます


写真を見てもらったら スルーしていただいても OKです


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11月13日の

第3回歴史のかたりべ「伏見城発掘~幻の城を求めて~」
 『伏見城の瓦を語る』
から瓦の歴史を少々を簡単にレポートします
(拙い文章で 何処まで伝わりますか… ^。^;)


まず 講習会場に展示されていた
伏見城跡から発掘された『黄金瓦』の写真


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ペタしてね


# 瓦の歴史 #(少し長いです)


今でこそ寒冷地以外では日本家屋普通に瓦が使われていますが
瓦屋根が一般的になったのは江戸中期以降で
昔は事情がかなり違います

そのあたりの歴史から


日本に仏教と共に伝わりました
そして瓦職人(制作者)奈良のお寺が独占に等しい状況でした

地方に寺を建てる時には奈良から職人が出張していたそうです
(下記「例外1」が生まれます)


その様な状況ですので 瓦屋根が有る建物は

この後九百年近くも
お寺関係と中国を模した建物(大極殿 等)に限られていた模様です


室町後記洛中洛外図にも 一般家屋は板屋根

御所等高貴な建物は茅葺きは描かれていません


防火性 耐水性 に優れていたのですが
閉鎖的な状況で 特権的?な事もあり

城や砦にも使用されていませんでした
(下記「例外2」もあった模様です)


そしてここで登場するのが
『織田信長』
信長の支配が畿内に広がった頃

あの有名な蘭奢待(らんじゃたい)切り取りの事件が起きます!
その時香木と一緒に瓦職人集団を連れ帰ったそうなのです


そして技術者の養成や技術革新に努め

徐々に生産量も増えてきました


瓦の裏の文様が斜めのものが古く
水平のものが 技術革新後の物らしいのですが…
一般人には実際に見ることが出来ないですね


この頃から城郭建築に瓦が使われだしたと考えられています
総石垣と耐火性に優れた瓦 
(さすが信長!!)

城の堅固さが一気にアップすることになります


ただ、まだ絶対数が少なかった為

当初は信長親族の城に下賜するかたちとなりました


その後 秀吉の時代になり 秀吉も瓦職人の大部分を手に入れ


自分の配下や 秀吉に臣従するものに 下賜するかたちとなりました


この様にステータスの高い瓦でしたので
金箔を貼った いかにもそれらしい瓦が現れます


金箔と瓦の質などは信長時代から秀吉時代に移るにつれ
大量生産の影響からか 落ちていると言われていました


特徴としては

信長時代 凹面に一枚の金箔を貼った(広く均一の金箔)
秀吉前期 凸面に数枚の金箔を貼った
秀吉後期 全面に数枚の金箔を貼った


江戸時代になり 下賜とゆう意味もなくなり

 金箔瓦も少なくなりました



近代になり 学問的に城跡発掘などが始まりましたが
当初「瓦」は 産廃扱いだったらしいです ( ̄□ ̄;)

持ち去られても文句は言えない状況ですね…


瓦から 時代や その場所の重要度が解る事が知られ
本格的に研究が始まってから まだ30年足らず
これからも 新発見が期待できる分野
また 新たな講演会が開かれる事だと思います


木戸先生 貴重な講演ありがとうございました m(_ _ )m


ペタしてね


とりどめのない文章で失礼しました m(_ _ )m



例外1:地方にも極少数 瓦職人はいた!
    国分寺などの建設で地方に派遣された奈良の瓦職人の中に
    何らかの事情で奈良に戻れなかった人が極少数いたようで
    その方たちが瓦を作っていた記録はあるそうですが
    本当に極少数だったそうです


例外2:お寺と一部の政府機関の建物等以外でも 瓦屋根が存在?
    地方有力者(荘園主、豪族、地方大名)の建物の一部には
    寺の修築や廃寺の際、瓦を引き取り再利用した建物も認められるそうです
    (先生の言い方だと 無理やり廃寺にしたものも有ったとか…)