体罰はいけないこと? それとも必要なもの?
2006年3月、北九州私立青葉小の男子児童が自殺したことを巡り、両親が「担任教師の体罰が原因」として..........≪続きを読む≫
このニュースを読んで、いろいろなことを考えました。。。。
戌渡が、前から思っていること。
「脱ガラパゴス経済」の主張も
「教育を変えよう」の主張も
「脱官僚・脱役所依存」の主張も
実は根っこには共通点がある。
日本の法律体系と、そもそものスタート時点での、民衆はおろかで、
賢い政治家や、選ばれた官僚が、おろかな民衆が黙って従えば
国はうまく治まる。
そんな考えを背景に、できたのではないかと考えています。
確かに、幕末のころ、寺子屋などのおかげで、読み書きそろばんは
世界でも高い水準にあったらしいが、
海外に関する知識は、ほとんどあるはずもなく、
海外を見聞きしてきた人間とのギャップは、むちゃくちゃに大きかったでしょう。
だから、知識のある賢いものが、おろかなものの行動を制限し、決める。
その法律体系や、司法制度、行政制度の基本的な考え方が、今も続いている。
しかも、日本語という言語の障壁が、いまだに海外との
知識や情報の交流を妨げている。
話を戻して、
理想に燃えて教師になったのに、失望してやめる教師はかなりの数に上る。
一部は本人の適性の問題。 一部は適切な指導制度の欠如、
そして、おそらく一部は親のせい。
(私もPTAの役員などもやりましたからよく見聞きしました。
担任ばかりでなく、校長や教頭も私の顔を見ると
「XXちゃんのお父さん」と、話しかけて来るぐらい(笑))
多くの親達が、子供をどうしつけたらよいか、ものすごく悩んでいる。
夫婦間の人間関係に悩んでいる人も少なくない。
子供が自殺したのは、本当に教師のせいなのか?
単なるきっかけに過ぎなかったのではないか?
日本の刑事では、当事者に明確な過失がなくても、
誰かに責任があったことにするために、
瑣末な過失を理由に有罪にすることが多いようだ。
「おろかで弱い立場である」と認定されると、
「相対的に強い立場であった」と認定された人間に、
責任を負わせる。
お役所(学校や企業なども)側には、
大した過失がなくても「管理責任があった」と認定され、
罰を与えられる。
間抜けなマスコミは、
いつものように、無責任な非難の嵐で、
「認定」加害者の人生を破壊する。
なぜなら、マスコミはいつでも「弱い者の味方」だから
認定「加害者」達の人生を破壊する権利があるかのごとくに。
おかげで、「管理責任のために」 お役所も、企業も、学校も、
「XXXをするな」「立ち入り禁止」 山のような禁止事項のために、
子供の自然な 思考・判断 能力と、 責任 当事者意識 を いつの間にか奪っていく。
自分が生きているのは、自分が決めたから。
自分が生きていて、
太陽の光を浴びるのがうれしいと感じる。
明日も、おいしいご飯が食べられる幸せを感じる。
そして、自分は幸せになる権利がある。
自分は、自分の力で幸せをつかむ。
そう感じて、考える能力を、奪っている。
私にもティーンエイジの子供が3人いる。
もし仮に自殺したら、自分の育て方を、一生後悔するだろうと思う。
ちょっとしたことで、長い間口も聞かない状態になることもある。
それでも、本気でしからなくてはいけないこともある。
そして、そのあと何日間も、それについて考えることもある。
子供を失った親は、教師を訴えたら、
自分は被害者だと、こころから納得することができるのだろうか?
自殺するような子供に育ててしまった、
自分の罪悪感を消すことができるのか?
「自己責任」をこの国に取り戻そう。
子供に、人生の楽しさを伝えよう。
大人も、自分が自分の人生の、何を楽しんでいるのか、
もう一度探してみよう。
そして、その楽しさを精一杯感じてみよう。
この子供の親が、新しい人生を切り開いてくれればいいと思う。
やめた教師が、自分の能力を活かす場を見つけてくれればよいと思う。
そして、少しでも早く、幸せを感じられるようになって欲しい。
この事件が、
「どちらが悪い」「誰かが悪い」ではなく、
子供に生きる楽しさを教える、
自分で考えることを教える、
そんな教育を作るきっかけに
なってくれれば、と心から願う。