先日、
近くのスーパーに行ったのです。
本当に、
いつもの、
ただのスーパーです。
夕方の、
特売の時間帯でした。
店内は、
たくさんの人で、
ごった返していました。
ざわざわとした、
あの活気ある空気感です。
カゴを押しながら、
今日の晩ご飯は何にしようかと、
考えていました。
豚の生姜焼きにしようか、
それとも、
お魚にしようか。
そんな、
平和な悩みを抱えながら、
歩いていたのです。
ふと、
視線の先に、
人だかりが見えました。
何なのだろうと、
気になりました。
近づいてみると、
そこには、
小さなテーブルが出ていました。
店員さんが、
フライパンで何かを焼いています。
いい匂いが、
フワッと漂ってきました。
『試食コーナー』
でした。
新商品の、
肉まんか何かだったのかもしれません。
湯気が、
モワッと上がっていました。
まわりの人たちは、
美味しそうに頬張っていました。
見ているだけで、
お腹がグーッと鳴りそうになりました。
ここで、
普通の人はどうするでしょうか。
「あ、試食やってるんだ」
と思って、
通り過ぎるかもしれません。
あるいは、
並んで一つもらって、
「美味しいね」と言って去るでしょう。
でも、
私は違いました。
そのときの私の脳内で、
なぜか、
ものすごいスピードで、
思考が回転し始めたのです。
大げさではなく、
雷に打たれたような衝撃でした。
では、
いったい、
何が起きたのでしょうか。
問題は、
『順番待ち』
というものです。
ほんの、
三、四人ほどの列でした。
すぐに自分の番が、
回ってくるはずでした。
けれど、
その列の先頭にいたおじいさんが、
少し様子がおかしかったのです。
店員さんと、
何やら熱心に話していました。
「これは、
何が入っているの?」
「タレは、
甘口かい?」
「うちのばあさんがね、
こういうの好きなんだよ」
おじいさんは、
質問の手を止めませんでした。
試食を一つ食べたあとも、
ずっと話しかけていました。
列は、
ピクリとも動きません。
私の後ろにも、
どんどん人が並んできました。
プレッシャーが、
フツフツと高まってきます。
ここで、
私は考えました。
たかが、
一口の試食です。
もらわなくても、
人生には何の影響もありません。
そのまま立ち去ることは、
十分に可能でした。
むしろ、
それが大人の判断というものでしょう。
時間も限られています。
ここで時間を潰す意味など、
どこにもありません。
そう。
理性では分かっているのです。
けれど、
足が動きませんでした。
まるで、
磁石のように、
床に貼り付いてしまったかのようでした。
いったい、
なぜなのでしょうか。
それは、
『ここで引き下がったら負けだ』
という、
妙なプライドが芽生えてしまったからです。
本当に、
バカバカしい話です。
誰と戦っているのか、
自分でも分かりません。
店員さんと戦っているわけでもなければ、
前のおじいさんと戦っているわけでもありません。
ただ、
自分のなかの、
小さな意地と戦っていたのです。
ここで諦めたら、
私はこれからの人生のあらゆる困難からも、
逃げ出す人間になってしまうのではないか。
そんな、
壮大な妄想まで膨らんでいきました。
たかが、
一口の試食です。
でも、
そのときの私にとっては、
自分の生き様を試される、
重大なイベントになっていました。
少し、
話しは変わりますが、
私たちは日々の生活の中で、
こういった小さな選択を、
何度も繰り返しているのではないでしょうか。
仕事での、
ちょっとした行き違い。
人間関係での、
微妙なすれ違い。
そういう場面で、
「まあいいか」と引くべきか、
それとも、
「いや、ここで引いてはいけない」と踏ん張るべきか。
目の前にあるのは、
ただのスーパーの試食の列です。
けれど、
そこには、
人間の本質が隠されているような気がするのです。
大げさだと思われるかもしれません。
でも、
本当なのです。
では、
あのときおじいさんは、
どうなったのでしょうか。
結局、
おじいさんは、
試食をもう一つもらって、
満足そうに去っていきました。
そして、
ようやく私の番が来ました。
店員さんは、
申し訳なさそうな顔をして、
私に言いました。
「お待たせしましたね、
どうぞ」
私は、
笑顔を作って、
「ありがとうございます」と言いました。
口に入れたそれは、
温かくて、
とても美味しかったです。
でも、
食べた瞬間に、
私は思ってしまいました。
「あれ、
これだけのために、
私はあんなに悩んでいたのだろうか」
と。
時間は、
五分ほどロスしました。
足も少し、
疲れてしまいました。
得られたものは、
一口の食べ物だけです。
費用対効果で言えば、
最悪と言えるかもしれません。
それでも、
私は、
その経験に大きな意味があったと信じたいのです。
なぜなら、
私たちは、
そういう無駄な葛藤のなかで生きているからです。
効率だけを求めて、
ロボットのように生きることは簡単です。
でも、
そんなことでは、
面白くありません。
無駄なことで悩み、
無駄なことにこだわり、
ときには立ち止まる。
それこそが、
『人間らしさ』
というものなのではないでしょうか。
スーパーの試食の列で人生を語るなど、
我ながらどうかしていると思います。
でも、
日々の生活のなかにこそ、
哲学は転がっているのです。
あの日、
私が手に入れたのは、
一口の試食だけではありません。
『立ち止まる勇気』
とでも言うのでしょうか。
まあ、
ただの買い物の途中の、
ちょっとした寄り道なんですけどね。
本当に、
スゴイ体験をしたと思っています。
次にスーパーに行くときも、
また同じように、
どうでもいいことで悩んでしまう気がします。
でも、
それでいいのです。
悩んで、
立ち止まって、
また歩き出す。
私たちの毎日は、
そういうことの繰り返しなのだと思います。
だからこそ、
目の前の小さな出来事を、
大切にしていきたいですね。
次は、
何の試食に出会えるでしょうか。
少し、
楽しみだったりします。
たとえば、
スーパーからの帰り道、
ふと空を見上げることがあります。
いつもなら、
素通りしてしまうような、
ただの夕暮れです。
でも、
試食の思い出を引きずったまま歩いていると、
その景色が、
少し違って見えたりするのです。
それは、
気のせいかもしれません。
あるいは、
ただお腹が空いているだけなのかも。
でも、
それでいいのです。
ここで、
少し、
話しは変わりますが、
みなさんは、
『空を見上げる時間』を、
最近、
持っているでしょうか。
仕事に追われ、
スマホの画面ばかりを見つめていると、
空の広さなんて、
忘れてしまいます。
忘れてしまうというか、
見えなくなってしまうのです。
視界が、
どんどん狭くなっている。
気がつけば、
足元のコンクリートだけを見つめて、
歩いている。
そんなことって、
ありませんか。
私は、
よくあります。
効率よく、
最短距離で、
目的地へ向かう。
それが正しいと、
信じ込んでいる。
でも、
本当に、
そうなのでしょうか。
では、
いったい、
何のために急いでいるのでしょうか。
問題は、
そこなのです。
私たちは、
どこに向かって、
走っているのでしょうか。
少し、
立ち止まってみる。
そうすると、
今まで見えなかったものが、
見えてきたりします。
たとえば、
道端の雑草です。
アスファルトの隙間から、
力強く生えている、
小さな緑。
名前も知らない、
そんな草花に、
心奪われたりする。
効率だけを考えたら、
そんなものは、
邪魔なだけかもしれません。
抜いてしまえばいい。
そう思う人も、
いるでしょう。
でも、
そこに命がある。
懸命に生きている、
一つの生命(いのち)がある。
そう気づいたとき、
私たちの心の中で、
何かが、
音を立てて動き出すのです。
それは、
感動(かんどう)と言ってもいいし、
共感(きょうかん)と言ってもいい。
要するに、
『心が震える』ということです。
効率的な世界には、
この『震え』がありません。
すべてが予定通りで、
すべてが計算通り。
だから、
退屈なのです。
心が動かない。
痛みもない代わりに、
喜びもない。
そんな世界は、
なんだか、
寂しすぎやしないでしょうか。
そう考えると、
私たちの人生に必要なのは、
効率ではなく、
むしろ、
『無駄』なのだと言えるかもしれません。
無駄な時間。
無駄な悩み。
無駄な寄り道。
そういうものの中にこそ、
人生の本当の味わいが、
隠されているのです。
ここで、
さらに話を広げてみます。
『人生の味わい』とは、
いったい、
何なのでしょうか。
それは、
何か偉大な成し遂げたことの中にあるのでしょうか。
世界を変えるような大発見をすること。
大金持ちになること。
歴史に名を残すこと。
もちろん、
それも素晴らしいことです。
でも、
すべての人が、
そんな大きなことができるわけではありません。
むしろ、
大多数の人は、
そうではない。
普通の毎日を送り、
普通に働き、
普通に眠る。
そんな人生です。
では、
そんな普通の人生には、
価値がないのでしょうか。
そんなはずは、
ありません。
絶対に、
そんなことはないのです。
なぜなら、
日々の暮らしの中にある小さな感動こそが、
私たちの『境涯(きょうがい)』を、
豊かにしてくれるからです。
境涯とは、
生命の状態(せいめいじょうたい)のことです。
同じ景色を見ても、
心が荒れているときは、
何も感じません。
むしろ、
いらいらしたりする。
でも、
心が穏やかなときは、
道端の花一輪にも、
愛おしさを覚える。
世界そのものは変わっていません。
変わったのは、
自分の心です。
つまり、
自分の心次第で、
世界はいくらでも美しくなるし、
いくらでも退屈になるということです。
スゴイことだと思いませんか。
私たちは、
自分の心一つで、
どんな世界にも住むことができるのです。
地獄のような世界にも住めるし、
天国のような世界にも住める。
すべては、
私たちの心の持ち方にかかっている。
仏教では、
これを『一念三千(いちねんさんぜん)』という、
なんだか難しそうな言葉で表現したりしますが、
ようするに、
そういうことなのだと思います。
難しく考える必要は、
ありません。
要するに、
目の前の小さな出来事を、
どう受け止めるか。
それだけのことなのです。
スーパーの試食で立ち止まることも、
夕暮れの空にハッとすることも、
すべては、
その『一念』を磨くための、
大切なトレーニングなのかもしれません。
トレーニングというと、
なんだか急に、
しんどそうに聞こえますね。
筋トレみたいな。
腕立て伏せを百回するような。
そんな大げさなものじゃありません。
もっと、
気楽なものです。
ただ、
ぼーっとする。
ただ、
美味しいものを味わう。
ただ、
風の心地よさを感じる。
そういう、
肩の力を抜いた瞬間にこそ、
私たちの生命は、
本来の輝きを取り戻すのです。
これを、
『人間革命(にんげんかくめい)』と呼ぶ人もいます。
大げさな名前ですね。
でも、
本質はそこにあるのだと思います。
世界平和とか、
人類の救済とか、
そういう大きな話の前に、
まず、
目の前の自分を救うこと。
カチコチになった心を、
少しだけ柔らかくすること。
それが、
すべての始まりなのです。
自分が柔らかくなれば、
隣の人に優しくできる。
隣の人が優しくなれば、
そのまた隣の人へ、
波及していく。
そうやって、
世界は少しずつ、
変わっていくのかもしれません。
一人の人間の変革が、
すべての変革の基礎になる。
そう考えると、
私たちが日常で感じる些細な感動や、
どうでもいいような迷いも、
決して無駄ではないということが、
よくわかります。
すべてが、
つながっているのです。
宇宙の星の動きと、
私の今日の夕食の献立の迷いとが、
どこかで、
糸で結ばれている。
そんな風に考えると、
なんだかワクワクしてきませんか。
私は、
してしまいます。
こんなちっぽけな存在だけど、
宇宙の一部として、
ちゃんと生きている。
そう実感できる瞬間が、
たまにある。
それが、
たまらなく好きなんです。
だから、
今日も明日も、
私は相変わらず、
くだらないことで悩み続けるでしょう。
あっちのスーパーが安いとか、
こっちの道が混んでいるとか、
そんなことでイライラしたり、
立ち止まったりする。
でも、
それでいいのです。
悩んで、
迷って、
遠回りして。
その足跡のすべてが、
自分という人間を形作っていくのだから。
完璧じゃなくていい。
効率的じゃなくていい。
ただ、
自分らしく、
生きていければ、
それだけで、
十分なのだと思います。
さて、
ここまで長いこと、
とりとめもない話を書いてきました。
そろそろ、
文字数もいい頃合いのようです。
パソコンの画面を閉じて、
お茶でも飲もうと思います。
今夜は、
緑茶にしましょうか。
それとも、
コーヒーにしようか。
また、
どうでもいいことで、
悩んでしまいそうです。
でも、
その悩んでいる時間こそが、
愛おしい時間なのだと、
今は胸を張って言える気がします。
明日も、
素敵な試食に出会えますように。
そんなことを願いながら、
今日のブログを閉じたいと思います。
お付き合いいただき、
本当に、
ありがとうございました。