「愛の反対は憎しみではない。無関心だ。」
マザー・テレサが言ったそうです。
え、憎しみじゃないの?
ってことで印象に残っている方も多いよう。
でも個人的には、ずっとこれは変だよなって思っていました。
だって、無関心の反対は愛ではないから。
無関心の反対は関心ですね!
愛の反対が「無関心」なわけがないのですよ。
50歳の誕生日の前日に、その理由が分かったのであります。
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「愛の反対は憎しみではない。無関心だ。」は、間違いです。
定義として間違いです。
説明しましょう。
「美味しい」の反対は?
と聞かれたらなんと答えますか?
もちろん「不味い」と答えるでしょう。
ところがそれに対して、
「美味しいの反対は不味いではなりません。無味です。」
と言われたらどうでしょう?
え??おかしいぞ。となりますね。
無の反対は有だからです。
愛の反対は憎しみではなく無関心
という言葉は、まさにこれと同じ構造です。
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愛の反対は憎しみではなく無関心
という文章は、対義語の定義として間違っているのです。
実際、国語としては「愛」の対義語は「憎」となっています。
では、無関心は愛の何と言えば正しいのでしょう?
愛の〇〇は憎しみではなく無関心
〇〇には何が入ると正しくなるでしょう?
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美味しい、不味いで考えてみましょう。
美味しいの反対は不味いです。
無の反対は有であり、美味しいや不味いの反対ではありません。
では、無は美味しい⇔不味いに対してどんな関係でしょう?
無理やり言うなら、「前の状態」です。
無は、美味しい⇔不味い の前の状態です。
食べ物がないとか、味がないという状態です。
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従って、
愛の〇〇は憎しみではなく無関心
〇〇に入るのは、「前」です。
「愛の前は憎しみではなく無関心」
これだと正解です。
「愛の前は、憎しみではありません。
認識する前の状態なので、無関心です。」
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まとめ
「愛の反対は憎しみではなく無関心」は間違い。
愛の前は、憎しみではなく、(認識する前の状態なので、)無関心です。
というか、反対という言葉の使い方が間違っているので、
愛の反対は憎しみですが、その前は無関心
という言い方にするのが正解。
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では、愛とは一体なんなのでしょう?
ここになるほど!!とすっきりする答えを書いた小説があります。
↓
誰が書いたか分かりませんが、名作です。
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もうひとつ驚きの事実を知りました。
じつは、マザーテレサは、「愛の反対は憎しみではありません。無関心です」とは言ってなかった!
「すべての人が幸せになる。これを邪魔している最大の敵は、私達の心の中に住む隣人の苦しみ、痛みへの無関心ではないでしょうか」
この言葉が間違われて解釈されたそうです。
可哀そうなマザーテレサ。
「愛の反対は憎しみではなく無関心 」
この言葉を最初に使ったのは、A・S・ニイル(1883年 - 1973年、イギリスの新教育運動の教育家)とのことです。