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tittle‐tattle~徒然のままに記す

基本的にコラムというか雑文をつらつら書いております。ジャンルは料理やら映画やら小説やらアニメやらゲームやら漫画やら音楽やら料理やら猫やらと、無尽蔵にキリがないので暇つぶしにでもどうぞ。ではでは。

ちなみにそんなに面白くはないです。

ピチカート・ファイヴの『東京は夜の七時』を今更聴く。何故か涙がでる。なんでしょう?

この頃の小西康隆と野宮真貴はすごい。今聴き直しても全然通用する。今で言うところのPerfumeの原点なので、まあオサレというか、それなりに古くはなく成立してる。実は当時はあまり好きというか好んでは聴かなかった。なんだか、おしゃれですよという空気が気に食わないというか、どうもね。でも、少し年月を経て聴き直すと意外といい。というか相当いい。野宮真貴のボーカルはキュートだし、小西さんの曲作りも素晴らしい。何より、単純に詩がいい。「早くあなたに会いたい」って、凄まじく単純な言葉だけど、絶妙なタイミングで歌詞に組み込まれると破壊力が凄い。単純な言葉は単純だけど、それだけに伝わる速度や力がある。けれどそれをきちんと理解して使いこなせる人間は少ない。いわゆる最近のJポップなどの歌詞にありがちな。これ以上は言うまい

なんでこんな夜中にこんなことを書いているのだろう。最近、年をとったせいか涙脆いというか、センチメンタリズムがひどいというか。まあ、猫が夜中に起き出して暴れてるのをかまってて、暇なのもあるのだけれど。

神様がいるかどうかなんて知らないし、知りたくもないけれど、いるならば少しだけでも笑わせて欲しい。あと、悲しいことは少ない方がいい。よく分からんこと書いてるね。アホだな。以上。

最近の若い人はあんまり映画を観なくなってるそうですな。ソースは薄らぼんやり読んだネットニュースなのでほぼ不明ですが、たしかにそういう印象はあります。

こういう言い方をするとオッサン丸出しなんですが、映画にしろ小説にしろ漫画にしろ、媒体はなんであれ作り手が親切になりすぎてるように多少思います。
昔の作品は割と突っぱねてたというか、表現力や演出力でセリフなんかで説明せずとも受け手に伝えていたし、受け手も読み取る能力があったように感じます。
今の作品は、とにかく親切、あらゆる意味で伝えたいことを全部言葉で語ってしまう。さらにはマーケティングやシステムが完成されているせいか、パッケージとしてしっかりしたものしか流通しない。要は、”作品”ではなく”商品”しかこちらのもとには届かないわけです。

映画にかぎらず、この売り方を続けると、受け手の理解力は育ちません。与えられて説明を全部しないと、解らないとか言い出す連中ばかりになるわけです。すると、作り手も冒険ができなくなります。大量生産。ただの千歳飴的な作品の量産が始まるわけです。いまでも、萌えアニメとかそうでしょ?

想像力はタダだし無限のものだと思います。与えられる前に、考えて感じて。そうブルース・リー師父も言われてました。コントロールされた娯楽など何も意味が無いのです。というか、全然映画の話じゃねえ。まあいいか。以上。


我が家には、現在子猫が二匹いるのだが、こいつらが仲がいいのか悪いのかよくわからない。
起きて、ご飯を食べたあとなんかはテンションが高いので、黒い先住猫が白い後輩猫をいじめたりする。でも、後輩猫もそこそこ強いので、ケンカ売っといてどつかれて黒いほうがしょんぼりしてることも割とあったり。じゃれてるレベルのうちならいいけど、怪我されちゃうと猫同士の関係もあるし、治療費がとんでもなくかかるのでこっちのジャッジする裁量が難しい。

ペットの話からの流れで書くけど、ペットを捨てる人の気持ちというか意味がわからない。事情はあるのは理解できる。たとえば子供ができたとかペットを飼えないところに住んだとか経済的なこととか。
それは、いい。いいのだけれど、なんで捨てたり保健所にもってったりするのか。里親くらい最低探せるだろう? いや、探せよ。ミニチュア・ダックスフンドが流行りました、アメショーがカワイイ、とかその場限りのノリで買って、飽きたらポイする連中を俺は呪詛する。許さん。眼の前にいたら確実にバール的ななにかでボコる。

責任取れないなら命でもなんでも構わない、受け入れるな。自分の度量を超えることを受け入れるな。

と、少しいらっときたので記しただけだったり。まあ、ペットいる人は可愛がってあげてねってことです。では。


tittle‐tattle~徒然のままに記す-仲がいいのか悪いのか