【イギリスの代理人伊藤博文、西南戦争、自由民権運動、明治憲法発布期の日本の本当の歴史】
日本人は、本当の日本の歴史および本当の世界の歴史を知りません。教科書に掲載され、一般に流布している歴史の情報は、フェイク情報です。そのため、日本人は、今何が起こっているのか、自分たちが何者なのか、今後何が起こるのか、が分かりません。
今何が起こっているのか、自分たちが何者なのか、今後何が起こるのか、を知るためには、本当の日本の歴史および本当の世界の歴史を知ることが必要です。
事実を知ることが、自由への第一歩です。
1. イギリスの代理人・伊藤博文
薩長同盟の斡旋から最新式兵器による武装まで、何から何までイギリスに支援された薩摩・長州を主力とする討幕軍が幕府軍を倒し、明治政府が確立します。
その結果、当然ですが、明治政府は、イギリスの強い影響力を受けることになります。明治政府では、薩摩藩・長州藩出身者が要職を占め、藩閥政治が行われることになります。何のことはない、藩閥政府=イギリスの傀儡政府です。

[第2代駐日英国大使ハリー・パークス(任期1865年 – 1883年)幕末から明治初期にかけ18年間にわたり駐日英国公使として日本に君臨し、近代日本の"形"を作りました。着任初年の1865年にすでに伊藤博文と会っています]
このあと、明治政府は、イギリスの指示に従い、日清・日露戦争へと突き進みましたが、それは、ロシアの南下を防ぎ、華中を勢力圏とするイギリスの権益を守るためでした。日本兵は、肉弾として利用されたわけです。
その過程で中心的役割を果たしたのが、日本の初代総理大臣の伊藤博文です。
伊藤博文は、明治時代、4度にわたって内閣総理大臣(初代、5代、7代、10代)を務め、大日本帝国憲法を起草し、日清戦争講和条約である下関条約を起草し、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などを歴任しました。全てイギリスの指示・支援によるものです。

[イギリスの代理人ー伊藤博文]
伊藤博文は、長州藩出身です。貧しい百姓の息子でしたが、父親が下級武士の養子となったため、武士出身を名乗りました。幼名は利助で、その後、俊英、俊輔、春輔、博文と改名を続けました。
伊藤博文は、欧米に心酔する吉田松陰の私塾・松下村塾で学び、江戸時代の鎖国の禁を破って長崎の出島からイギリスに密航しました。その密航の手引きをしたのが、またしてもジャーディン・マセソン商会です。

[幕末にジャーディン・マセソン商会の手引きでイギリスに密航した長州藩の5人。イギリスでは "CHOSHU 5" と呼ばれました。後列右が伊藤博文]
イギリスで英語を習得した伊藤博文は、帰国後、明治政府の官僚として頭角を現し、忠実なイギリスの代理人としてイギリスの指示に従って動くことになります。
2. 西郷隆盛と板垣退助の政府からの追放

[岩倉使節団、右から大久保利通、伊藤博文]
1871年から1873年、伊藤博文は、岩倉使節団の副使として薩摩藩出身の大久保利通らとともにアメリカ・ヨーロッパの視察を行います。
ところが、伊藤博文らが日本を離れている間に、民族主義者でイギリスから距離を置く西郷隆盛と板垣退助が政府内で影響力を拡大し、征韓論を主張し始めます。武力で朝鮮を開国させようという主張です。

[西郷隆盛]
西郷隆盛は、イギリス外交官アーネスト・サトウから、イギリス海軍の支援を提示されたとき、毅然として断ったと伝えられています。西郷隆盛は、日本がイギリスの傀儡ではなく、独立国家として自立していくことを目指していました。
そこで、1873年、欧米視察から帰国した伊藤博文は、大久保利通と共謀し、今は内政に注力すべきという名目で、西郷隆盛と板垣退助を明治政府から追放します。日本の自立、日本独自の外交・軍事を許さないイギリスの指示によるものです。
征韓論を唱える西郷隆盛と板垣退助を追放した明治政府でしたが、実は、そのわずか2年後の1875年、日本は朝鮮に対し軍艦で艦砲射撃を行い、開国を迫りました。江華島事件です。翌1876年、日本は、朝鮮と日朝修好条規(江華条約)を締結、朝鮮を開国させました。まさに西郷隆盛と板垣退助が唱えていた征韓論を実行したわけです。
このことからも、西郷隆盛と板垣退助の追放は、彼らが征韓論を唱えていたからではなく、自主外交を目指し、イギリスと距離を置く分子を政府から排除することが目的であったと思われます。
3. 西南戦争
政府を追われ、鹿児島に戻った西郷隆盛は、1874年、私学校という名称の陸軍士官養成のための学校を設立しました。間もなく、西郷隆盛を慕う私学校出身者が鹿児島県政を支配するようになります。
そして、1877年(明治10年)、西郷隆盛は、帯刀・俸禄など江戸時代の特権的身分を奪われ不満を持っていた鹿児島県士族を糾合し、明治政府に対する武力反乱を起こします。いわゆる西南戦争です。九州各地の士族も合流し、反乱軍の規模は3万人に達しました。
西南戦争は、熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県を戦場とし、9か月間にわたり激戦が繰り広げられました。

[西南戦争・田原坂(熊本県)の戦いー政府軍の猛攻]

[西南戦争・鹿児島の戦いー政府軍の上陸]
しかしながら、最終的に、西郷隆盛率いる反乱軍は、最新式兵器で武装した7万人を超える明治政府軍によって制圧・鎮圧されます。
追い詰められた西郷隆盛は自決しました。それ以降、各地で発生していた士族の反乱は、途絶えることになります。

[西郷隆盛の自決]
ちなみに、西南戦争の際、明治政府軍が圧倒的な兵力を迅速に九州各地へ輸送することを可能にしたのが、新興財閥三菱商会を率いる岩崎弥太郎の38隻の商船隊です。政府軍7万人の他、膨大な弾薬、食糧などの輸送・補給を一手に引き受けました。
岩崎弥太郎は、ジャーディン・マセソン商会の代理人トーマス・グラバーから近代的ビジネスの手法を学び、莫大な利益を生む商船隊を保有していました。西南戦争で政府が戦費として払った金額4150万円のうち三菱商会への支払いが、1500万円に上ったとも言われています。

[岩崎弥太郎とトーマス・グラバー]


[三菱商会の商船隊で西南戦争に向かうため、横浜港に集まる政府軍]
なお、西南戦争の翌年、1878年、伊藤博文と共に藩閥政府の中心だった大久保利通(当時内務卿)は、馬車で移動中、亡き西郷隆盛の主張に共感する石川県・島根県の士族により東京の紀尾井坂で暗殺されました。

[大久保利通の暗殺ー紀尾井坂の変]
空席となった内務卿職は、他でもない、伊藤博文が引き継ぎました。
4. 自由民権運動
西南戦争および各地の士族の反乱が鎮圧・制圧されるのを見て、武力によるイギリス支配からの脱却が困難と悟った板垣退助は、言論による政府批判に活路を見出します。いわゆる自由民権運動です。

[板垣退助]
板垣退助は、1874年「民撰議院設立建白書」を提出していました。
自由民権運動の中心は、国会開設の要求です。板垣退助は、選挙を通じて国民の声を国会に反映させ、イギリスに支配された藩閥明治政府を変えようとしていました。
自由民権運動は、西南戦争以後、最盛期を迎えます。1880年、板垣退助は国会期成同盟を結成。国会開設とともに地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透、運動は全国民的なものとなりました。

[自由民権運動ー演説会の様子]
1881年、自由民権運動の世論に押され、ついに明治政府は、国会開設の勅諭を発表、1890年に国会を開設するという約束をせざるを得ませんでした。
5. 国会(議会)を無力化する明治憲法
このままでは、薩長閥を通じたイギリスの支配が弱まることになります。そこで、イギリスは、再び伊藤博文を使うことにします。
1882年、伊藤博文は、憲法調査のためヨーロッパに出発。イギリスは、伊藤博文に対し、議院内閣制のイギリス憲法ではなく、皇帝制のドイツ憲法を手本とするよう指示します。
イギリスでは、商工業者が議会を通じて政治を主導、国王は政治権力を持たず象徴にとどまっていました。これに対して、ドイツ憲法は皇帝制を取り、皇帝に権力が集中していました。
伊藤博文は、1年2か月にわたりヨーロッパに滞在し、ドイツの憲法を学びます。帰国後、伊藤博文が中心となって、明治憲法(大日本帝国憲法)が起草されました。
まず1885年、内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任します。

[初代内閣総理大臣就任時の伊藤博文]
1888年、伊藤は天皇の諮問機関として枢密院を設置し、自ら議長となって憲法草案の審議を行います。

[明治天皇と枢密院会議]
そして、1889年、天皇が国民に授ける形で、大日本帝国憲法が発布されました。

[明治憲法(大日本帝国憲法)発布式]
明治憲法は、一言で言えば、天皇への絶対的な権力集中です。天皇は、天皇大権と呼ばれる一切の統治権限を有していました。
天皇の大権事項は次の通りです。
陸海軍統帥の大権(統帥権 - 第11条)
軍編成の大権(第12条)
ー 明治憲法の下、天皇は、最高司令官として、陸海軍を直接統帥します。国会も、内閣も口を出せませんでした。
立法大権(法律の裁可・公布、法案への拒否権 - 第6条)
緊急勅令・独立命令・執行命令に関する大権(第8条・第9条)
議会の組織及び開閉に関する大権(第7条) - 召集権、開会・閉会・停会命令権、解散権
ー 立法権を有するのは天皇であり、帝国議会は立法機関ではなく単なる立法協賛機関とされました。天皇は、帝国議会の法案が気に入らなければ拒否権を発動して、法案を潰すことが出来ました。
天皇は、緊急勅令や独立命令を発する権限など、実質的な立法権限を有していました。
官制及び任官大権(第10条)
栄典授与の大権(栄典大権 - 第15条)
条約締結などの外交大権(第13条)
ー 天皇は、国務大臣を任命・罷免する権限を持ち、国務大臣はあくまでも天皇への輔弼(ほひつ:天皇が権能を行使するに際し、助言を与える事)を行うだけでした。外交も天皇の権限でした。
戒厳宣告の大権(第14条)
非常大権 (第31条)
ー 戦時や自然災害時、天皇は事実上軍政を敷き、国民の人権を停止することが出来ました。
明治憲法発布の翌年、政府の約束通り1890年に第1回総選挙が行われ、第1回帝国議会が開かれました。しかしながら、帝国議会は無力でした。

[帝国議会]
帝国議会が発足しても、イギリスは、伊藤博文を始めとする元老、枢密顧問官などのキーパーソンを押さえ、天皇に大権を行使させることで、日本への支配を維持することが出来ました。
イギリスの覚えめでたい伊藤博文は、このあとさらに3度総理大臣に就任します。
伊藤博文を使い、明治憲法によって天皇の絶対的権力体制を確立したイギリスは、いよいよ本格的に、日本軍を中国におけるイギリス権益を守るための肉弾として利用することになります。日清戦争当時の首相も伊藤博文(第2次伊藤内閣)でした。
伊藤博文は、明治時代、4度にわたって内閣総理大臣(初代、5代、7代、10代)を務め、大日本帝国憲法を起草し、日清戦争講和条約である下関条約を起草し、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などを歴任しました。全てイギリスの指示・支援によるものです。
以後、伊藤博文は、米英に支配され続ける日本の政治家のモデルとなります。とくに第2次大戦後、吉田茂以降、岸信介、安倍晋三、岸田文雄に至るまで、米英に媚びへつらう自民党政権首相のモデルとなります。
以上
註記: 上記の見解は、私個人のものであり、いかなる団体あるいは政党の見解をも反映するものではありません。
私自身は、いずれの政党・政治団体ならびに宗教団体にも所属していません。あくまでも一人の市民として、個人として発言しています。民主主義と平和を実現するために発言しています。
追記: もし私の情報発信に賛同して下さる方がいらっしゃいましたら、下記口座へ寄付をしていただけましたら幸いです。より効果的かつ大規模な情報発信が可能となります。
みずほ銀行
店番号:590(浜松支店)
預金種目:普通
口座番号:3011469
口座名:マツザキ ノブアキ
日本人は、本当の日本の歴史および本当の世界の歴史を知りません。教科書に掲載され、一般に流布している歴史の情報は、フェイク情報です。そのため、日本人は、今何が起こっているのか、自分たちが何者なのか、今後何が起こるのか、が分かりません。
今何が起こっているのか、自分たちが何者なのか、今後何が起こるのか、を知るためには、本当の日本の歴史および本当の世界の歴史を知ることが必要です。
事実を知ることが、自由への第一歩です。
1. イギリスの代理人・伊藤博文
薩長同盟の斡旋から最新式兵器による武装まで、何から何までイギリスに支援された薩摩・長州を主力とする討幕軍が幕府軍を倒し、明治政府が確立します。
その結果、当然ですが、明治政府は、イギリスの強い影響力を受けることになります。明治政府では、薩摩藩・長州藩出身者が要職を占め、藩閥政治が行われることになります。何のことはない、藩閥政府=イギリスの傀儡政府です。

[第2代駐日英国大使ハリー・パークス(任期1865年 – 1883年)幕末から明治初期にかけ18年間にわたり駐日英国公使として日本に君臨し、近代日本の"形"を作りました。着任初年の1865年にすでに伊藤博文と会っています]
このあと、明治政府は、イギリスの指示に従い、日清・日露戦争へと突き進みましたが、それは、ロシアの南下を防ぎ、華中を勢力圏とするイギリスの権益を守るためでした。日本兵は、肉弾として利用されたわけです。
その過程で中心的役割を果たしたのが、日本の初代総理大臣の伊藤博文です。
伊藤博文は、明治時代、4度にわたって内閣総理大臣(初代、5代、7代、10代)を務め、大日本帝国憲法を起草し、日清戦争講和条約である下関条約を起草し、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などを歴任しました。全てイギリスの指示・支援によるものです。

[イギリスの代理人ー伊藤博文]
伊藤博文は、長州藩出身です。貧しい百姓の息子でしたが、父親が下級武士の養子となったため、武士出身を名乗りました。幼名は利助で、その後、俊英、俊輔、春輔、博文と改名を続けました。
伊藤博文は、欧米に心酔する吉田松陰の私塾・松下村塾で学び、江戸時代の鎖国の禁を破って長崎の出島からイギリスに密航しました。その密航の手引きをしたのが、またしてもジャーディン・マセソン商会です。

[幕末にジャーディン・マセソン商会の手引きでイギリスに密航した長州藩の5人。イギリスでは "CHOSHU 5" と呼ばれました。後列右が伊藤博文]
イギリスで英語を習得した伊藤博文は、帰国後、明治政府の官僚として頭角を現し、忠実なイギリスの代理人としてイギリスの指示に従って動くことになります。
2. 西郷隆盛と板垣退助の政府からの追放

[岩倉使節団、右から大久保利通、伊藤博文]
1871年から1873年、伊藤博文は、岩倉使節団の副使として薩摩藩出身の大久保利通らとともにアメリカ・ヨーロッパの視察を行います。
ところが、伊藤博文らが日本を離れている間に、民族主義者でイギリスから距離を置く西郷隆盛と板垣退助が政府内で影響力を拡大し、征韓論を主張し始めます。武力で朝鮮を開国させようという主張です。

[西郷隆盛]
西郷隆盛は、イギリス外交官アーネスト・サトウから、イギリス海軍の支援を提示されたとき、毅然として断ったと伝えられています。西郷隆盛は、日本がイギリスの傀儡ではなく、独立国家として自立していくことを目指していました。
そこで、1873年、欧米視察から帰国した伊藤博文は、大久保利通と共謀し、今は内政に注力すべきという名目で、西郷隆盛と板垣退助を明治政府から追放します。日本の自立、日本独自の外交・軍事を許さないイギリスの指示によるものです。
征韓論を唱える西郷隆盛と板垣退助を追放した明治政府でしたが、実は、そのわずか2年後の1875年、日本は朝鮮に対し軍艦で艦砲射撃を行い、開国を迫りました。江華島事件です。翌1876年、日本は、朝鮮と日朝修好条規(江華条約)を締結、朝鮮を開国させました。まさに西郷隆盛と板垣退助が唱えていた征韓論を実行したわけです。
このことからも、西郷隆盛と板垣退助の追放は、彼らが征韓論を唱えていたからではなく、自主外交を目指し、イギリスと距離を置く分子を政府から排除することが目的であったと思われます。
3. 西南戦争
政府を追われ、鹿児島に戻った西郷隆盛は、1874年、私学校という名称の陸軍士官養成のための学校を設立しました。間もなく、西郷隆盛を慕う私学校出身者が鹿児島県政を支配するようになります。
そして、1877年(明治10年)、西郷隆盛は、帯刀・俸禄など江戸時代の特権的身分を奪われ不満を持っていた鹿児島県士族を糾合し、明治政府に対する武力反乱を起こします。いわゆる西南戦争です。九州各地の士族も合流し、反乱軍の規模は3万人に達しました。
西南戦争は、熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県を戦場とし、9か月間にわたり激戦が繰り広げられました。

[西南戦争・田原坂(熊本県)の戦いー政府軍の猛攻]

[西南戦争・鹿児島の戦いー政府軍の上陸]
しかしながら、最終的に、西郷隆盛率いる反乱軍は、最新式兵器で武装した7万人を超える明治政府軍によって制圧・鎮圧されます。
追い詰められた西郷隆盛は自決しました。それ以降、各地で発生していた士族の反乱は、途絶えることになります。

[西郷隆盛の自決]
ちなみに、西南戦争の際、明治政府軍が圧倒的な兵力を迅速に九州各地へ輸送することを可能にしたのが、新興財閥三菱商会を率いる岩崎弥太郎の38隻の商船隊です。政府軍7万人の他、膨大な弾薬、食糧などの輸送・補給を一手に引き受けました。
岩崎弥太郎は、ジャーディン・マセソン商会の代理人トーマス・グラバーから近代的ビジネスの手法を学び、莫大な利益を生む商船隊を保有していました。西南戦争で政府が戦費として払った金額4150万円のうち三菱商会への支払いが、1500万円に上ったとも言われています。

[岩崎弥太郎とトーマス・グラバー]


[三菱商会の商船隊で西南戦争に向かうため、横浜港に集まる政府軍]
なお、西南戦争の翌年、1878年、伊藤博文と共に藩閥政府の中心だった大久保利通(当時内務卿)は、馬車で移動中、亡き西郷隆盛の主張に共感する石川県・島根県の士族により東京の紀尾井坂で暗殺されました。

[大久保利通の暗殺ー紀尾井坂の変]
空席となった内務卿職は、他でもない、伊藤博文が引き継ぎました。
4. 自由民権運動
西南戦争および各地の士族の反乱が鎮圧・制圧されるのを見て、武力によるイギリス支配からの脱却が困難と悟った板垣退助は、言論による政府批判に活路を見出します。いわゆる自由民権運動です。

[板垣退助]
板垣退助は、1874年「民撰議院設立建白書」を提出していました。
自由民権運動の中心は、国会開設の要求です。板垣退助は、選挙を通じて国民の声を国会に反映させ、イギリスに支配された藩閥明治政府を変えようとしていました。
自由民権運動は、西南戦争以後、最盛期を迎えます。1880年、板垣退助は国会期成同盟を結成。国会開設とともに地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透、運動は全国民的なものとなりました。

[自由民権運動ー演説会の様子]
1881年、自由民権運動の世論に押され、ついに明治政府は、国会開設の勅諭を発表、1890年に国会を開設するという約束をせざるを得ませんでした。
5. 国会(議会)を無力化する明治憲法
このままでは、薩長閥を通じたイギリスの支配が弱まることになります。そこで、イギリスは、再び伊藤博文を使うことにします。
1882年、伊藤博文は、憲法調査のためヨーロッパに出発。イギリスは、伊藤博文に対し、議院内閣制のイギリス憲法ではなく、皇帝制のドイツ憲法を手本とするよう指示します。
イギリスでは、商工業者が議会を通じて政治を主導、国王は政治権力を持たず象徴にとどまっていました。これに対して、ドイツ憲法は皇帝制を取り、皇帝に権力が集中していました。
伊藤博文は、1年2か月にわたりヨーロッパに滞在し、ドイツの憲法を学びます。帰国後、伊藤博文が中心となって、明治憲法(大日本帝国憲法)が起草されました。
まず1885年、内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任します。

[初代内閣総理大臣就任時の伊藤博文]
1888年、伊藤は天皇の諮問機関として枢密院を設置し、自ら議長となって憲法草案の審議を行います。

[明治天皇と枢密院会議]
そして、1889年、天皇が国民に授ける形で、大日本帝国憲法が発布されました。

[明治憲法(大日本帝国憲法)発布式]
明治憲法は、一言で言えば、天皇への絶対的な権力集中です。天皇は、天皇大権と呼ばれる一切の統治権限を有していました。
天皇の大権事項は次の通りです。
陸海軍統帥の大権(統帥権 - 第11条)
軍編成の大権(第12条)
ー 明治憲法の下、天皇は、最高司令官として、陸海軍を直接統帥します。国会も、内閣も口を出せませんでした。
立法大権(法律の裁可・公布、法案への拒否権 - 第6条)
緊急勅令・独立命令・執行命令に関する大権(第8条・第9条)
議会の組織及び開閉に関する大権(第7条) - 召集権、開会・閉会・停会命令権、解散権
ー 立法権を有するのは天皇であり、帝国議会は立法機関ではなく単なる立法協賛機関とされました。天皇は、帝国議会の法案が気に入らなければ拒否権を発動して、法案を潰すことが出来ました。
天皇は、緊急勅令や独立命令を発する権限など、実質的な立法権限を有していました。
官制及び任官大権(第10条)
栄典授与の大権(栄典大権 - 第15条)
条約締結などの外交大権(第13条)
ー 天皇は、国務大臣を任命・罷免する権限を持ち、国務大臣はあくまでも天皇への輔弼(ほひつ:天皇が権能を行使するに際し、助言を与える事)を行うだけでした。外交も天皇の権限でした。
戒厳宣告の大権(第14条)
非常大権 (第31条)
ー 戦時や自然災害時、天皇は事実上軍政を敷き、国民の人権を停止することが出来ました。
明治憲法発布の翌年、政府の約束通り1890年に第1回総選挙が行われ、第1回帝国議会が開かれました。しかしながら、帝国議会は無力でした。

[帝国議会]
帝国議会が発足しても、イギリスは、伊藤博文を始めとする元老、枢密顧問官などのキーパーソンを押さえ、天皇に大権を行使させることで、日本への支配を維持することが出来ました。
イギリスの覚えめでたい伊藤博文は、このあとさらに3度総理大臣に就任します。
伊藤博文を使い、明治憲法によって天皇の絶対的権力体制を確立したイギリスは、いよいよ本格的に、日本軍を中国におけるイギリス権益を守るための肉弾として利用することになります。日清戦争当時の首相も伊藤博文(第2次伊藤内閣)でした。
伊藤博文は、明治時代、4度にわたって内閣総理大臣(初代、5代、7代、10代)を務め、大日本帝国憲法を起草し、日清戦争講和条約である下関条約を起草し、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などを歴任しました。全てイギリスの指示・支援によるものです。
以後、伊藤博文は、米英に支配され続ける日本の政治家のモデルとなります。とくに第2次大戦後、吉田茂以降、岸信介、安倍晋三、岸田文雄に至るまで、米英に媚びへつらう自民党政権首相のモデルとなります。
以上
註記: 上記の見解は、私個人のものであり、いかなる団体あるいは政党の見解をも反映するものではありません。
私自身は、いずれの政党・政治団体ならびに宗教団体にも所属していません。あくまでも一人の市民として、個人として発言しています。民主主義と平和を実現するために発言しています。
追記: もし私の情報発信に賛同して下さる方がいらっしゃいましたら、下記口座へ寄付をしていただけましたら幸いです。より効果的かつ大規模な情報発信が可能となります。
みずほ銀行
店番号:590(浜松支店)
預金種目:普通
口座番号:3011469
口座名:マツザキ ノブアキ