今日、地元紙を開いたら、こんな特集を発見。
「魚津高 しんきろう旋風50年」
![魚津a](https://stat.ameba.jp/user_images/a9/86/10085099875.jpg?caw=800)
高校野球も大詰めを迎える中、
奇しくも50年前の8月16日に高校野球の球史に残る試合が行われました。
徳島商業 vs 魚津高校
延長18回0対0の死闘を繰り広げ
再試合は3ー1で徳島商業が勝利した名勝負。
お若い方はほとんどご存じないと思いますが、
夏の高校野球を振り返るとき、必ずと言っていいほど語られる試合です。
昭和33年(1958年)。
名も無き富山の高校が、一回戦に優勝候補・大阪の浪商に大金星を揚げるところから伝説は始まります。
(この時の浪商にはあの張本勲さんがいました)
二回戦もまた強豪、東京代表・明治高校。
三回戦はやはり優勝候補の一角、群馬の桐生高校。
そして準々決勝で対戦したのが、、、
![魚津b](https://stat.ameba.jp/user_images/65/55/10085099877.jpg?caw=800)
その年、屈指の豪腕投手との呼び声高い
「板東英二」率いる徳島商業!!!
あの板東さん、本当に凄いピッチャーだったんですよ。
この年(昭和15年組)は、張本勲さんや王貞治さんなどきら星の如き才能を輩出した年。
中でも板東さんは、翌年、最高額の契約金で中日に入団しました。
多分、今でもこの試合が語り継がれるのは、板東さんが活躍しておられるからだと思います(笑)。
さてさて、どうしてここまで、
わたしがこの話題を熱く語るかというと、、、
わたしの父が、この時の魚津高校のナインだったのです。
![魚津c](https://stat.ameba.jp/user_images/b9/83/10085099880.jpg?caw=800)
左から二番目、ひときわのっぽさんなのが、
わたしの父です。
当時で身長が182cm。
わたしの体型は、紛れもなく遺伝です。
その後、野球の道に進んだわけでもなく、
家業を継ぎ地元で平凡に生きた一人の男にとって、
この数日の出来事が、人生の最も輝ける一瞬であったことは、
紛れもない事実なのでしょう。
その証拠に、わたしはこの試合と、そこに至る道のりを、
まるで我がことのように聞き知っている。
それこそ、晩酌をする父の口から、おとぎ話のように、
何度も何度も繰り返し聞いて育ちました。
この時、甲子園の土を踏んだ魚津高校野球部で、
宮武監督や父を含めた6人の方がすでにこの世を去っています。
わたしが魚津高校に在籍していた頃、
宮武監督は学食で働いていらっしゃたので、
毎日のように、おいオヤジは元気か?って、声を掛けてくださったっけ。
父も生きていれば今年で68歳…。
いやはや、今日、この新聞記事を目にするまで、
あの時から半世紀の時が流れたことさえ、
うかつにも気づかずにいました。
父にとって、宝のようなこの想い出は、
同じようにわたしにとっても掛け替えのない宝です。
今年はいろんな発見のあるお盆になりました。
「魚津高 しんきろう旋風50年」
![魚津a](https://stat.ameba.jp/user_images/a9/86/10085099875.jpg?caw=800)
高校野球も大詰めを迎える中、
奇しくも50年前の8月16日に高校野球の球史に残る試合が行われました。
徳島商業 vs 魚津高校
延長18回0対0の死闘を繰り広げ
再試合は3ー1で徳島商業が勝利した名勝負。
お若い方はほとんどご存じないと思いますが、
夏の高校野球を振り返るとき、必ずと言っていいほど語られる試合です。
昭和33年(1958年)。
名も無き富山の高校が、一回戦に優勝候補・大阪の浪商に大金星を揚げるところから伝説は始まります。
(この時の浪商にはあの張本勲さんがいました)
二回戦もまた強豪、東京代表・明治高校。
三回戦はやはり優勝候補の一角、群馬の桐生高校。
そして準々決勝で対戦したのが、、、
![魚津b](https://stat.ameba.jp/user_images/65/55/10085099877.jpg?caw=800)
その年、屈指の豪腕投手との呼び声高い
「板東英二」率いる徳島商業!!!
あの板東さん、本当に凄いピッチャーだったんですよ。
この年(昭和15年組)は、張本勲さんや王貞治さんなどきら星の如き才能を輩出した年。
中でも板東さんは、翌年、最高額の契約金で中日に入団しました。
多分、今でもこの試合が語り継がれるのは、板東さんが活躍しておられるからだと思います(笑)。
さてさて、どうしてここまで、
わたしがこの話題を熱く語るかというと、、、
わたしの父が、この時の魚津高校のナインだったのです。
![魚津c](https://stat.ameba.jp/user_images/b9/83/10085099880.jpg?caw=800)
左から二番目、ひときわのっぽさんなのが、
わたしの父です。
当時で身長が182cm。
わたしの体型は、紛れもなく遺伝です。
その後、野球の道に進んだわけでもなく、
家業を継ぎ地元で平凡に生きた一人の男にとって、
この数日の出来事が、人生の最も輝ける一瞬であったことは、
紛れもない事実なのでしょう。
その証拠に、わたしはこの試合と、そこに至る道のりを、
まるで我がことのように聞き知っている。
それこそ、晩酌をする父の口から、おとぎ話のように、
何度も何度も繰り返し聞いて育ちました。
この時、甲子園の土を踏んだ魚津高校野球部で、
宮武監督や父を含めた6人の方がすでにこの世を去っています。
わたしが魚津高校に在籍していた頃、
宮武監督は学食で働いていらっしゃたので、
毎日のように、おいオヤジは元気か?って、声を掛けてくださったっけ。
父も生きていれば今年で68歳…。
いやはや、今日、この新聞記事を目にするまで、
あの時から半世紀の時が流れたことさえ、
うかつにも気づかずにいました。
父にとって、宝のようなこの想い出は、
同じようにわたしにとっても掛け替えのない宝です。
今年はいろんな発見のあるお盆になりました。