ケンヂは放送室をジャックした。ロックをかけた。何かが変わると信じていた。
 だが何も変わらなかった。

「ずっと遊びたかった」
 短いがその一言がともだちのすべてだと思った。

 クラスには人気者がいる。何かあればみんなその人の周りに集まる。グループ分けしても休み時間も放課後も。その人と自分を比べると嫌になる。どんなに背伸びをしてもとどかなくて。自分のほしいものを全部持っているように見えて。でも「遊ぼう」って声さえかけれなかった。本当は一緒に遊びたくて仕方なかったのに。

 でもある日注目を浴びた。万博にいくことになったのだ。ケンヂからも他の人からも注目を浴びた。
 でも行けなくなった。でも行けなかったなんて言えない。だからサダキヨと代わることにした。
 いじめられた。
 ケンヂがバッジを盗んだ。
 自分のせいにされた。
 自分は死刑になった。透明で見えなくなった。

 「わるもんでもいいんだ」
 という言葉が頭に残る。
 見えなくなる、とは一番辛いかもしれない。そこにいるのにいないように。気づかれない、相手にされない、無視される。わるものにされるよりもはるかに辛いと思う。だからともだちはわるもんでもいいんだと言ったのだと思った。
 何かで聞いたことがある。「一番辛いのは忘れられること」。

 ともだちが抱えた心の闇。それはとても深くて深くて。
 僕のクラスでもやはりいじめはあった。一人の女の子だった。その子はとても無口で。周りから「きもい」と毎日のように言われていた。それでもその子は毎日学校に来ていた。どんな気持ちで学校に来ていたんだろう。僕もみんなと同じだった。彼女をいじめていた。きっと彼女は一生その事は忘れられないのだろうと思う。
 高校のとき同じようなことを今度は僕がされた。隣になるだけで嫌な顔をされ、横を通るだけで悪口を言われ、班分けしても仲間はずれで、二日間誰とも喋らなかった事さえあった。まるで自分なんてこのクラスにいないかのように。辛かった。いてもいなくてもいい、なんて辛すぎる。あんなに夢見ていた高校生活は思い出したくない日々に変わった。あの彼女の気持ちが少し分かった気がした。
 ただ一つ確かなことがある。した方、はきっと何も思わず、あっという間に忘れて生きていくのだろう。
 された方、はきっと一生背負っていくのだと思う。決して忘れないのだろう。たとえその後幸せな人生を送ったとしても。
 ともだちの行動はまさに「遊び」そのものだったと思う。昭和の町並みを再現したり。正義の味方、テロリスト、世界征服、地球防衛軍・・・。少年の頃当たり前のように遊んだことばかり。あの原っぱでたくさん遊んだ。でもそこに僕はいない。
「もう大人なんだ。」「もう終わりだ」。
 まるで幼き頃の遊ぶ時間が終わって家に帰らなければならないのにまだ遊んでいたかったあの頃のようにともだちは言う。
「やめろ、終わっちゃうじゃないか」
 たくさんの人たちを犠牲にした。本当の友達なんていなかったかもしれない。それでもよかった。どんなにわるもんでも確かに僕はここにいる。
 素顔をさらしたともだち。本当に子供のような顔だった。

 ケンヂが出てきたときは鳥肌が立った。半端じゃなかった。やっとだ、って感じで。ケンヂの歌も頭から離れない。どこか懐かしい感じがして。
 たくさんいた登場人物たちはこの最終章で自分達の「始まり」に決着をつける。それぞれが自分の運命と真っ向から立ち向かうのだ。
 オッチョもユキジもマルオとケロヨンもカンナもヨシツネも。そしてケンヂも。運命とは何か?それは過去と向き合い未来に進む事だと感じた。
 ラスト10分。宣伝文句のようにテレビでやっていたが見ていたらどこが最後の10分なのか分からなくてエンドロールやりながら、え?これで終わり?とか思っていたが最後の最後にどんでん返しのどんでん返しで。前二作が一気にくっついて。最高に感動したラストだった。
 大人のケンヂの後押しもあってか少年ケンヂは謝りに行く。謝るとは単純だがとても勇気のいることだ。あの頃のケンヂは仲間を助けることができても自分と向き合う勇気はなかったのだろう。
 嫌な事は全部忘れてしまえ。都合の悪いことは記憶から消し去ってしまおう。
 もし誰かが「彼」のことを覚えていたらこんなことにはならなかったかもしれない。
 もし誰かが「彼」のともだちになったらこんなことは起こらなかったかもしれない。

 ケンヂは放送室をジャックした。ロックをかけた。
 何かが変わると信じていた。
 
 そしてある少年に初めてのともだちができた。 
 それはとても小さいことだが彼にはとても大きなことだった。
 すべてが変わって見えた。

ずっと一人ぼっちだった。誰からも相手にされず愛なんて自分には関係ないものだと思っていた。最初は小さいことから。ちょっと陰口を叩かれただけ。それがだんだん怖くなっていった。横を通るたびに悪態をつかれグループ分けしてもあまりもの。
 孤独というのは一人のときに訪れるものではない。たくさんの人が周りにいながらまるで自分だけスポットライトを浴びていないかのように、あるいは自分だけあびているかのように客観的に第三者の目で自分を見下ろすことがある。その時ふと自分は孤独なのだと感じる。いてもいなくても変わらない存在。
 次第に周りから聞こえてくる笑い声が自分を嘲笑っているように聞こえてくる。馬鹿にされている。下を向きながら歩き誰とも眼を合わさず。気になる子がいても遠くから見守るだけ。自分は好きになってもらえない。自分も自分のことが好きじゃないから。どこかでこんな言葉を聞いた。
「自分のことを好きじゃないのに他の人があなたを好きになるわけない。」僕はそうは思わなかった。
「誰も好きになってくれない自分をどうしたら好きになれるだろうか」
 自分なんて大嫌いだ。だから誰かにも自分を好きになってもらえるとも思わない。自分と隣に誰かが歩いていたらきっとほかの人は「あいつなんかと歩いているし」とか囁かれる。
 すべては悪循環だ。自分を嫌いになり次に思うのは「自分はこの世界には必要ない」という思い。誰にも話しかけられない。心配されない。あいさつもされない。名前を呼ばれない。当然頼りにもされない。誰も頼りにできない。あいさつもできない。
 「生きる」ということは「選択」することだと思う。生きるために人は常に選択をしなければならない。それは「あの会社に入る」「あの人と結婚する」「今日はお肉を食べよう」といった選択。でもそれがもし「生きる」と「死ぬ」の二つの選択肢だったとしたら。それがもし「死ぬ」しかなかったら。
 石神は一体どんなことを思って首に縄をかけたのだろうか。すべてに絶望し「死ぬ」以外に選択肢がなくなった人は一体何を思うのか。それは他の人には決してわからない。石神は天才だった。だがそれゆえにきっとたくさん悩んだに違いない。決して整っているとは言えない容姿。誰とも合わない会話。聞いてくれない授業。彼の周りにはいったい何があったのか。
 そんな彼が希望を手にしたのは絶望の淵に立たされたまさにその時だった。彼女らはただ引っ越しの挨拶できただけだった。もらったものもただの「挨拶」だったかもしれない。でも彼にとってそんなことは関係なかった。誰かが自分に話しかけた。笑ってくれた。いつも幸せそうな声を聞かせてくれた。人の目も気にせず遠くから手を振ってあいさつしてくれた。それがどれだけ彼にとってうれしい出来事だったことか。どれだけまぶしい光りだったことか。
 その人たちのために彼は犠牲を払った。すべてを。
 「最愛」の歌詞は彼を歌った歌に聞こえた。 愛せなくていい、愛さなくていい。見守っていて、見守ってる。強がってるんだよ、でもつながっていたいんだよ。
 どれだけ人と接したかったことか、どれだけ人に触れてほしかったことか。
 ある映画でこんなコピーがある。「まっすぐな愛には誰もかないっこない。」
 彼の愛はひたすらまっすぐだった。本当の愛を知らなかった彼はまるで中学生のようにまっすぐ愛した。不器用で駆け引きなんてできなくてとても見てられないけど純粋で決して折れることのないまっすぐな愛。
 最後、愛した人は自分のもとへやってきた。自分も一緒に償うと。彼はすべてが台無しになっったと。でも彼は嬉しかったに違いない。こんな自分のために手に入れることができるかもしれないこれからの幸せを犠牲にして自分のところへやってきてくれたことが。自分のために泣いてくれる人がいたことが。悔しさと切なさとそして幸せがあったと。

 彼の友人は苦悩した。唯一無二の友人。愛する者のため自らも手を染めた事実。それでもかばおうとした大切な人。暴いたところで誰が幸せになるのか。
 湯川は今までにないくらい悩んだ。論理的、なんて言葉はそこにはなかった。数式なんてなんの役にもたたない現実。それでも彼には背中をそっと押してくれる人がいた。時に抱きしめてくれる人がいた。すべてをともに受け止めてくれる人がいた。

 今までは仮説を立て実証されたことで事件を解決に導いていたが今回、彼はそれらを全部排除し彼と真正面から対峙する。

 こんなにも愛おしい謎に出会ったことがない。
 願わくば誰にの手によっても解かれないように。そしてすべての人がこの謎を愛してくれますように。

 もしこの世界にヒーローがいたら
JFK暗殺、ベトナム戦争、キューバ危機。その影にはウォッチメンの存在があった。
 だが政府は彼らの存在を認めずキーン条例により自警活動を禁止した。

 それは一人のウォッチメンが殺されたところから始まる。
 殺されたのはコメディアン。合衆国の諜報部員として条例後も認可されたウォッチメン。その彼の死はヒーロー狩りではないかと独自の調査を始めたのは顔のない謎の男ロールシャッハ。
 時を同じくして世界は核戦争の危機に立たされていた。米ソ冷戦。人々は終末時計を眺めながら明日かもしれない核の恐怖に怯えていた。
 かつてのウォッチメンに警告を発したロールシャッハは調査中何者かにはめられ警察に捕まり素顔を公の場にさらけ出されてしまう。ロールシャッハは捜査していた誘拐された少女を無残にも残酷なやり方で殺されるという経験をもっていた。
 同じくウォッチメンで核実験により全身分解後再構成したDrマンハッタンと恋人の二代目のシルクスペクター。
 マンハッタンと別れた後ナイトオウルの下にいたシルクスペクターはロールシャッハを助けるため刑務所へ。救出後三人で捜査を開始。しかし彼らを待っていたのは知ってはならない真実だった。

 前半は登場人物の過去やトラウマ、葛藤や転機などが時間をさいて描かれているので少し退屈するところもあるが後半に入ってそれが大事だと分かった。それらを描くことによって彼らの行動の意味、方向性などが明確になりそれぞれの立場や考え方が分かる。それは終盤になって重要性を増してくる。そう、あのラスト。

 黒幕は同じくウォッチメンの一人だったエイドリアン・ヴェイト。
 彼の計画を知ったため死んだコメディアン。ヒーロー狩りだと気づいたため警察に捕まったロールシャッハ、癌はお前のせいだと嘘の報道をさせ地球を追放させられたDrマンハッタン。それらはすべてヴェイトの仕業だった。彼は彼の正義を実行しようとしていた。
 それは数百万の犠牲により数十億を救う、というものだった。数百万の人を殺す。それをすべてDrマンハッタンのせいにする。そして米ソはともに協力しやがて世界は団結し核危機を防ごうというものだった。
 だがそれに反発するロールシャッハ。何があってもお前のしたことは許されない。真実を人々に話す。だがもしそれをしたら核戦争は起こり数十億の人々が殺されることになる。 
 そして殺されるロールシャッハ。
 世界は皮肉にもそれらの犠牲によって平和になるのだった。

 ヴェイトのやったことは許されない。きっとそれは全ての人が思うだろう。でも彼は悪人ではない。きっとこれからの人生を犠牲にしてしまった人々の死を背負って生きていくのだろう。
 戦争とは人を殺す、殺される。そうやってたくさんの人を犠牲にしながら平和を手に入れてきた人間。一見ヴェイトの行動は非人間的にも思えるが皮肉にも彼の行動は今まで人類がしてきた事と同じ事だった。百人を助けるために一人を犠牲にする。一人を助けることができないで百人を助けることができるのか。
 終わりのない議論。何が善で何が悪なのか。正義とは何なのか。
 ロールシャッハの言う事はおそらく正しい。それは決して許されない事だ。人の命を天秤にかけた行為を許すわけにはかない。しかも何の罪のない人が一瞬にして殺されたのだ。それを黙認することはできない。だが真実を知ったら核戦争が起きて数十億の人間が死ぬかもしれない。ならばそれは正義か?
 ヴェイトもロールシャッハもそれぞれが信念を持っている。どんな事にも揺らぐことのない正義。
 それは答えのない質問だった。我々は何もいえない。自分達は関係ないとそっぽを向き不正が行われたときだけ文句をつけ自分達の歴史もろくに知らずひたすら傍観者に徹している我々はどちらも攻める権利はない。
 その選択を迫られたとき僕らは沈黙するしかないだろう。そしてDrマンハッタンが代弁してくれた最後の言葉。ヴェイトに向かって言う言葉。
「許しはしない、非難もしない、理解はする。」

 もしウルトラマンが存在したら。その一歩でアスファルトは砕かれ電柱は倒れ電線は切れる。ビルは崩壊し火事にもなり一回の戦闘でたくさんの犠牲者が出るだろう。戦う場所もその方法も何も選ばずに怪獣を倒すことだけに専念するウルトラマン。きっと大日本人みたいに非難されるんだろうな(笑)
 キャラクターはとにかくいい。ロールシャッハは秀逸。「外に出てチンピラの小指を折れば、コンピューターは必要ない」なんてクールだ。
 アクションは上映時間の長さを考えれば多くはないが300でも見せたアクションはかっこいい。
 万人受けする映画ではないだろう。面白くないという人の気持ちもわかる。でも自分はこの映画が好きだ。何度も見たいって思った。