第71回  岡倉天心 | インキュベーター社長日記 | インターウォーズ株式会社 吉井信隆のブログ

第71回  岡倉天心

時々、東京の下町が好きで、谷中に散歩に出かける。


谷中に、小さな六角で出来た奇妙なお堂のある「岡倉天心」という名の公園がある。


以前から、六角堂と岡倉天心という名前の由来が解からず気になっていたが、10月の連休に出かけた際、茨城の五浦海岸で思わぬ出会いがあった。


今から100年程前、フランスでエコールドパリ、日本では五浦(いずら)時代という近代の美術の礎を築いた黄金期がある。


この時代に、横山大観、下村観山、菱田春草、等をはじめ、日本を代表する画家の傑物達が同じ時代に育っている。


1889年、東京美術学校(今の芸大)設立時、初代校長として若干27歳で就任した岡倉天心という人がいた。


岡倉天心は、古くから受け継がれた日本の美術の伝統を大切にしながらも、西洋画の技術や画風を取り入れようと試みた。


当時岡倉天心は、反支流と見なされ、美術学校の学長職を辞し、茨城の五浦海岸に居を移し、日本美術院を設立した。


岡倉天心を師と仰ぎ、五浦に集ったのが、横山大観をはじめ、下村観山、菱田春草、木村武山といった当時の若者達である。


岡倉天心の思想の影響を受け、「空気」を描く画風が生まれた。


「流燈」などをはじめ日本美術界の宝と言われる作品を多く生み出されている。


五浦時代の画家達は、それぞれ名声を高め、日本画の改革者として、今日の近代日本画の道を示した。


天心の晩年、五浦海岸で海の最もよく見えるところに、六角の六角堂を建て、よく太平洋を眺めていたようである。


英語が堪能だった天心は、日本美術院を運営する傍ら、アメリカのボストン美術館からも中国、日本の美を広める役割を担っていたが、51歳の若さでこの世を去った。


弟子達がこの天心の思いを語り繋ごうと、以前天心が創設した日本美術院のあった跡地谷中に「岡倉天心公園」とそのシンボルとして「六角堂」を建てた。


いつの時代も、新たな変革が行なわれる時、強烈なメッセージを伝えるリーダーがいる。


リーダーの思想を表現するエネルギー溢れる若者達がそこに集い、競い、新たなバリューを創造していく。


歴史は繰り返される。


今、私たちは、時代の大転換期にいる。





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