在宅思い出描撮(1981年:インドネシア・アチェ) | ロドさんの繪ブログ「一期一繪」

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団塊の世代のラストランナー。想い出深い海外駐在当時も振り返りながら「日本再発見」ということで国内あちこちのスケッチを織り交ぜて気ままに、「人生はFESTINA LENTE(ゆっくり急ごう)」

 

北緯28度高度1600mのヒマラヤの麓カトマンズから、一旦日本に帰国してその1ヶ月後には、赤道直下のインドネシア共和国の最北西端の町バンダアチェへ。

 

何ともすさまじい移動だ。

 

聞いたこともない全く見知らぬ土地であったが、不安が強すぎたせいか、逆に新鮮すぎて興味津々で開き直れることが出来た。

 

マラッカ海峡側の灰色の砂浜に比べてインド洋に面している海岸は白砂でサンゴ礁も綺麗だった。

 


ご存知の通り、インドネシアは人口の90%がイスラム教徒の世界最大のイスラム国家である。

 

7世紀にアラビア半島で誕生したイスラム教は、インドを経由してこの辺りからスマトラ島に入りマラッカ海峡を経由、ジャワ島、そしてインドネシア全土に広まったと言われている。

 

従って、他の州に比べてアチェ特別州はインドネシアで最もイスラム教の戒律が厳しいと言われていてアルコール販売は禁止。インドネシア最初のイスラム国家が誕生したこともあり、独立意識が強いので今でも「特別州」となって、治安上の点からも中央から強大な軍が配備されている。私が駐在中も何度か動乱が起きていた。

 

そもそもジャワ人も行きたくない所だった、と知ったのは赴任した後の祭り。ジャカルタに出張しても、「ダリマナ?(どこから?)」と聞かれて、アチェと答えるとビビられたことも何度か(笑)

 

そして、日本では感しなかった”宗教は大変だな”、と実感したのは、ネパールで🆖だった牛はOKだが、ここでは豚が🆖!!

 

ともあれ、着任して1年経って常夏の異文化での生活にもだいぶ慣れ、インドネシア語も何とか話せるようになったので、バンダアチェの沖合いにあるサバン島に小旅行をしたので、今回はこれを「在宅思い出描撮」とした。

 

 

インドネシア語は”世界一簡単な言語”という事で有名。

「米はナシ、魚はイカン、菓子はクエ」

 

名詞が、接頭語、接尾語の変化で、形容詞、動詞、受動詞、進行形などになる。日本のような魚の名前も無く語彙が少ない。例えば、「白くて長くて小さい魚」と表現する。

 

バンダアチェの ”Bulan Bintang”空港(”月星”空港=イスラム色強し)から15分の飛行機は極めてローカルの航空会社「SMAC」の小型機。

 

因みに「SMAC」は、"Sabang Merauke Air Charter"の略。

 

”Sabang”はインドネシアの最北西端の町、"Merauke"は最東端の町で、アメリカ大陸の東西距離とほぼ同じ約5000kmの最東端にあるニューギニア島でパプアニューギニアと国境を接しているイリアンジャヤ州の町。

 

"Sabang ke Meruke"はインドネシア全土を表す言葉として使われていた、と記憶している。

 

 

ガイドブックの代わりに古いアルバム(ナカバヤシの貼り付け型)の最初のページにあったオリジナル観光案内図。

 

 

Kota[コタ](街)はダウンタウンの意味もあり「古都」に似てるので覚えやすい。

 

以下の写真は古いアルバムから。

 

ホテルはサバン島の丘の上にある”Sabang Hill Guest House”

予想外になかなか立派なホテルだ。

交易と観光の島だからかな?

 

 

庭のブーゲンビリアが美しい。

 

 

タクシーで南下し島の東海岸の貴重な砂浜に降りてみた。

 

 

 

島の西海岸に行く峠から湾の反対側のホテルのある半島を眺める。

 

 

白いタンクは国営石油会社プルタミナの石油基地だ。

 

 

この島はフリーポート(免税地)になっていた。

 

レミーマルタンが、1本9,750ルピア(約US$11)、アンカービール(10缶)が3,000ルピア(約US$3.60)をお土産に買った。アルコール禁止でも外国人と駐留軍人は自宅内に限り飲酒OKだ。

 

出国前の看板には「インドネシア国内では外国製品の税金を払うのを忘れないで!」、で正しいかな?

 

 

観光案内図の続き下半分(容量オーバーで分割)

 

 

(波の荒い島の西側)

 

(砂浜のある島の東側)

 

 

バンダアチェには1983年4月までの3年半駐在し、同年7月から英国へ移動したのだ。

 

<おまけ>

この島"Plau Weh(Sabang Island)"は今やリゾート地として人気らしい。時間が経つのを忘れたこの島にも40年の歳月は確実にこの最果ての島にも。それほど美しい島を訪れた多分最初の日本人駐在員/観光客?としては嬉しい。