「言葉は様々な解釈を許容する。」

ある言葉はある人には意味Aとして伝わり、またある人には意味Bとして伝わる。
芥川の素晴らしさをとく時に「多くの言葉を語ることが出来る」という点が指摘される際、上に書いたようなことが含意されているように思う。

そこから派生して映画について考えた。
映画は映像としてある瞬間の空間を鮮明に映しだしてしまう。
その点で暴力的だ。少なくとも視覚の面で解釈を許容してくれない、そこには映画的視覚世界しかない。
しかし、それでも映像を前提として解釈を行うことはできる。例え製作者が解釈の抹殺を試みたとしても。

「”ない”ことは既に意味である」
既にそこに”ある”言葉や映像でさえそれを解釈する必要があるのに、そこ”ない”言葉や映像もまた解釈を要求する。
その場面で言われるべき言葉、映されるべき映像が”ない”ということ。それは既に意味である。
”ない”ことによるメッセージを「メタメッセージ」とでも呼ぼうか。

僕達はこのメタメッセージに至る所で遭遇する。
交渉において、あるいは企業間競争において、あるいは恋愛において。

身近な所では恋愛が顕著だろうか。
”ない”ことの意味に敏感になると恋愛もまた一層楽しくなるんじゃないかなと思う今日この頃です。

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