明日はクリスマスイブ。
この時期になると、街でもラジオでも、いわゆる定番のクリスマスソングを耳にする機会が増えます。

そこで、質問です。
「サザンのクリスマスソングって何?」

多くの人は、
「白い恋人たち」
「メリークリスマス・イン・サマー」
と答えると思います。

ただ、ここには少しだけ注意点があります。

この2曲は、
サザンオールスターズ名義の楽曲ではありません。

「白い恋人たち」は桑田佳祐のソロ曲。
「メリークリスマス・イン・サマー」は桑田バンドの楽曲です。

ここで一拍置いて、
「じゃあ、サザン名義のクリスマスソングは?」
と聞かれたときに、すぐ答えられる人は、かなりのサザン通だと思います。


サザン名義のクリスマスソング

答えは、この2曲。

・クリスマス・ラブ
・CHRISTMAS TIME FOREVER

どちらも、いわゆる特大ヒットという位置づけではありません。
ただし、クリスマスソングとしての完成度は極めて高い。

そして、この2曲は立ち位置が明確に違います。

「クリスマス・ラブ」はシングル。
一方、「CHRISTMAS TIME FOREVER」は
アルバム「世に万葉の花が咲くなり」の収録曲です。



ここが、とてもサザンらしい。


あえて「季節商品」にしなかったという選択

「世に万葉の花が咲くなり」のリリースは、9月中旬。
クリスマスには、まだ早い時期です。

普通に考えれば、
「CHRISTMAS TIME FOREVER」というタイトルの曲があるなら、

11〜12月に
クリスマス向けのシングルとして
別枠でリリースする

そういう判断があっても、何の不思議もありません。
むしろ、ビジネス的にはそのほうが自然です。

でも、サザンはそうしなかった。

この曲を
クリスマス時期に向けた「商品」として切り離さず、
あえてアルバムの一曲として収録した。

ここに、
サザンオールスターズというバンドの美学が
はっきり表れている気がします。


クリスマスを「人生の中」に戻す感覚

サザンにとって、クリスマスは
特別な日ではあっても、
特別扱いするためのイベントではなかったのかもしれません。

夏があり、
秋があり、
その延長線上に、静かにやってくるクリスマス。

だからこそ、
9月発売のアルバムの中に、
何事もなかったかのように
「CHRISTMAS TIME FOREVER」が置かれている。

これは、
クリスマスを切り取らず、
人生の流れの中に戻すという感覚
なのだと思います。


シングルとしての「クリスマス・ラブ」

一方で、「クリスマス・ラブ」はシングルとして世に出た曲です。
そして、何より印象に残るのが、あのジャケット。



雪景色の中の、どこか心許ないあばら家。
その上空に浮かぶ、正体不明のUFO。

恋人もいない。
笑顔もない。
クリスマスらしい「説明」もない。

それでも、
「何かが起こるかもしれない」気配だけは、確かにある。

もしかしたら、
あのあばら家は馬小屋のような場所で、
そこで何かが生まれようとしているのかもしれない。

UFOは、
ベツレヘムの星のような存在なのかもしれない。

答えは用意されていません。
だからこそ、想像が広がる。


サザンのクリスマスが、今も残る理由

シングルで象徴を突きつける
「クリスマス・ラブ」。

アルバムの流れの中で、
静かに染み込ませる
「CHRISTMAS TIME FOREVER」。

別枠で出してもおかしくないのに、あえてそうしない。
その選択にこそ、サザンの美学がある。

派手じゃない。
分かりやすくもない。
でも、毎年この時期になると、ちゃんと思い出してしまう。

サザンオールスターズのクリスマスソングは、
そういう形で、今も生き続けているのだと思います。

ちなみに、もう一つサザンらしさを感じさせる小ネタがあります。

「クリスマス・ラブ」のカップリング曲は、
なんと「ゆけ!!力道山」。

クリスマスソングのシングルに、
このタイトル、この内容の曲を平然と組み合わせてくる。
普通なら「空気を読め」と言われかねない選択です。

でも、サザンはそれをやってしまう。
しかも、違和感がない。

むしろ、
「だからサザンなんだよな」
と納得してしまうのが不思議なところです。

季節感やムードを揃えることよりも、
作品としての面白さやバランスを優先する。

クリスマスだからといって、
すべてを“クリスマス色”に染めない。
ここにも、サザンオールスターズの美学がはっきりと表れています。

シリアスとユーモア。
ロマンとバカバカしさ。
高尚さと大衆性。

その全部を同じシングルの中に同居させてしまう感覚。
改めて考えると、やっぱり只者じゃないバンドです。



昨日、M-1グランプリを観ながら、ふと賞レースというものについて考えた。



M-1も、気づけば20年以上続く年末の風物詩だ。もはや単なるお笑い大会ではなく、日本のエンタメ文化の一部になっている。
一方で、賞レースと聞くと必ず話題になるのが「忖度」や「出来レース」という言葉だ。

特に音楽界の日本レコード大賞は、長年そうした噂と切り離せない存在だった。
もっとも、今となっては影響力自体は昔ほどではない。
むしろ最近の結果は、世相をそれなりに反映しているとも言える。
ただ、冷静に考えると「レコード大賞」という名称自体が、すでに時代から取り残されている感は否めない。



では、賞レースとは本来、何を評価し、何を残すものなのだろうか。
文学賞にある「該当作品なし」という選択
ここで思い浮かぶのが、文学の世界だ。
直木賞や芥川賞には、歴史の中で何度も「該当作品なし」の年が存在する。
その年は「不作だった」ということもあるだろうし、
「水準には達していなかった」という判断だったのかもしれない。



重要なのは、無理に選ばないという選択肢が制度として認められている点だ。
これは、見る側にとって非常に健全だと思う。
人が選ぶ以上、審査員の好みや価値観が反映されるのは避けられない。
それでも、「基準に届かなければ出さない」という姿勢があるだけで、賞そのものへの信頼は大きく保たれる。

エンタメ賞レースが抱える構造的な問題
一方で、テレビの賞レースは事情が違う。
放送枠があり、スポンサーがあり、盛り上がりの設計がある。

だからどうしても、
毎年必ずチャンピオンが必要
結果が予定調和になりやすい
相対評価に終始してしまう
という構造に陥る。
M-1グランプリも、基本的にはその枠組みの中にある。
その年に集まった中で一番面白かったコンビを選ぶ、という相対評価だ。
しかし、それは本当に「最高到達点」を示しているのだろうか。

絶対基準が生む、もう一つの物語
もしM-1に、文学賞のような発想を持ち込んだらどうなるだろう。
例えば、決勝進出や優勝に「最低到達点」という絶対基準を設ける。
その結果、今年は決勝が2組しかいない、あるいは1組しかいない。
極端に言えば「今年はチャンピオン該当なし」という年があってもいい。

そこで生まれるのは、単なる勝ち負けではない。
「1位だったが、基準点に届かずチャンピオンにはなれなかった」
この肩書きは、決してマイナスではない。
むしろ、
実力は証明された
だが完成形ではなかった
成長の余地が公式に示された
という、極めて強い物語を芸人に与える。
そして数年後、再挑戦で基準点を超えて真のチャンピオンになる。

これは演出ではなく、制度が自然に生み出すドラマだ。
賞レースは「結果」より「記憶」を残す装置
賞レースは、エンタメである以上、盛り上がりは必要だ。

だが同時に、文化として残るかどうかは別の話だ。
直木賞や芥川賞が信頼されているのは、
「必ず勝者を作らない勇気」を、長い時間をかけて示してきたからだと思う。 

もしM-1が、
勝者を生む大会から、完成度を記録する大会へ一歩踏み出したとしたら。
それは年末の風物詩を超えて、
日本のお笑い史に残る「試験制度」になるのではないだろうか。

賞レースとは何か。
それは、勝者を決める場であると同時に、
才能の現在地を正直に刻む場所なのかもしれない。
CSで何気なくついていたテレビ。
気づけば『ダイ・ハード』をやっていて、「あ、もうすぐクリスマスイブか」と思いながら、途中からなのにラスト1時間をしっかり観てしまった。



何度も観ている映画なのに、
巻き戻しも早送りもできない“テレビ放送”という条件に乗せられると、なぜか最後まで付き合ってしまう。
これはもう、あるあるだと思う。
そして、すべてが終わったあとに流れる
Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow!。
あの瞬間、空気が一気に変わる。
銃声と爆発、張りつめた緊張感から解放されて、
ナカトミ・プラザに舞う紙吹雪が“雪”に見えた瞬間、
「ああ、今年も年末に入ったな」と、強制的に実感させられる。
この曲が巧みなのは、
物語の途中では一切クリスマスを前面に出さず、
最後の最後でだけ“季節”を解禁するところだ。



だからこそ、
この Let It Snow はBGMではなく、
年末への切り替えスイッチとして機能する。
毎年この曲を聴くたびに、
「今年も終わるな」
「またダイ・ハードを観たな」
「結局、テレビで最後まで観たな」
そんな感情が、まとめて押し寄せてくる。
配信で好きなタイミングに観られる時代でも、
年末になると、こうしてテレビで流れる『ダイ・ハード』と
Let It Snow に、つい身を委ねてしまう。
これもまた、
年の瀬の風物詩なのだと思う。