ミャンマー日記ーヤンゴンに帰るー19
「どうしてミャンマーに来たの?」
「仏教に興味があったから」
こんな会話を、ミャンマーで何度か繰り返していた。ある夜、テダーともその話になった。
「ミャンマーは南伝仏教の国だ。日本だって仏教国だけど、日本は中国や韓国と同じ北伝仏教で、ちょっと違うんだ。
スリランカ、タイ、ラオス、カンボジア、それにミャンマーだけに原始仏教の南伝仏教が生き残っているんだよ(ただしカンボジアだけは、近年の社会主義政権によって仏教界は壊滅的な打撃を受けた)。僕は原始仏教に興味があるんで、菩薩や禅がどうしたなんていうことは良くわからない。
ヴィパッサナー瞑想を知ってるだろ? 数年前、僕は日本でこの瞑想法を受けてね、すごく刺激を受けたんだ。この瞑想法の指導がつまりブッダの教えの核心で、この瞑想法による修行がなくては真の解脱は成し遂げられない。
少なくとも仏典にはそう書いてあるんだけど、北伝仏教は禅を除くとそういう瞑想法はあまり教えないんだ。そこで南無阿弥陀仏とか、とにかく神仏に祈願して救われるのを待つということになるんだけど、これじゃあほかの宗教と同じで、僕には魅力がなかった。
僕は日本で自分なりに原始仏教とか仏教のベースになっているヨーガを勉強してたんだけど、自然それを伝統的に継承的してきたスリランカとかミャンマーに興味が湧いてきてね、三年前はタイとラオスに行ったし、今年の四月にはスリランカにも行った。それで今回はミャンマーに来たんだ。
・・・そりゃミャンマーはいい国だよ。人はみんな素朴で親切だし、この国じゃ鳥や猫ですら人間を警戒しない。つまらないことかもしれないけど、これは日本じゃ考えられないことだよ・・・」
「でも・・・」
それまで黙って聞いていたテダーが口を挿んだ。
「今の政府は良くないわ」
「うん…。たしかに、僕が受けた印象でも、ミャンマーの人たちは警察やスパイにびくびくしているところがあるね。外国人に対しても渡航制限があったり、細かくパスポートをチェックされたりして、ちょっと窮屈なところがあるよ」
「2007年の事件を覚えている?」
「ああ、日本人のジャーナリストがデモの撮影をしているところを軍人に射殺された・・・」
「そうよ。あれは誤射じゃなくて意図的なものだったのよ。至近距離で・・・。それに彼のカメラだって紛失したことになってるけど、軍部が回収してしまったに決まってるわ。海外には知られてないけど、軍は国民に対してもっとひどいことをたくさんしてるのよ」
「・・・」
「でも・・・そう来年、わからないけど、もし軍部の邪魔が成功しなければ・・・来年またミャンマーも変わるかもしれない」
「新しい改革・・・いや革命かな?」
「そう。でもこれは秘密なのよ。私は知ってるのよ。アウンサンスーチーは色々妨害にあってるけど、彼女はよく闘っているわ」
僕は彼女の隣でその話を聞いていたが、テダーが政治についてはっきりした意見を持っているのに驚いていた。いや、むしろミャンマーのように政治的緊張が日常的にある国ではそれは当たり前で、国民の大多数がニュースキャスターのコメントや、ネットに流れてくる文句を鵜呑みにして満足している日本が異常なのかもしれない。
スリランカとミャンマーには似たところがあるような気がする。
スリランカは社会主義国であり、ミャンマーは軍部が独裁的な権限を持つ軍事国家だが、どちらも資本主義の経済至上の価値感は受け容れていない。日本のような「先進国」に比べると、両国とも生活水準は著しく低いが、たとえばインドやマレーシアのような恐るべき貧富の差は見られない。
もちろん物乞いがいたりするが、その数は少ないし、物質的な貧しさの中でお互いに助け合うシステムが強固に出来上がっているようだ。そしてそれを象徴しているのが、托鉢の習慣のような仏教徒を国民総出で保護しようとする伝統だ。
面白いのは、娯楽にも「先進国」とは違ったところがあることで、スリランカ人やミャンマー人はTVをそれほど好んでいない(それに引きかえインド人はTVが大好きだ)。遊びは今でもカラムといったボードゲームやビリヤードのような手先を駆使するものが主流で、TVゲームはたいして流行っていない。
これにもたぶん、麻薬やアルコールの使用を厳しく批判する仏教の影響があるような気がする。仏教のどこまでも「素面」の、サイケデリックな幻想を排除する傾向が関係しているように思われる。
そして文化的な遺産のほとんどが仏教関連のものであること。これは当たり前に思われるが、日本やインドを考えてみるとやはり特別なことだと思う。特に日本は島国の仏教国で、その点スリランカと同じなのに、日本の文化の「多様性」は目眩がするほどだ。
全体に、スリランカとミャンマーには「時間の止まってしまった国」、という同じ印象がある。必須の生活様式は近代化されても、人々の考え方や、文化的なスタイルは、2400年前に仏教が入ってきて以来、ほとんど変わっていないように思われるのだ。
・・・言いかえれば、スリランカとミャンマーには「進歩」という観念がないと言ってもいいかもしれない。このような批評は、あげて「革新」と「前進」をスローガンにしている「先進国」の人間にとっては侮辱的に響くだろう。
だがそれは、「進歩」を善とし「停滞」を悪とする先入見を前提としているから起こる反応で、それならばなぜ僕らはあえて前進しなければならないのかともう一度自問してみてもいいはずだ。
その答えは端的に言って、僕らの存在(ないしは生活)はどうしようもなく不完全なものなので、したがって僕らは現在にひどく不満なものだから、できるかぎりそれをカヴァーするために現状を改善しなければならない、ということだろう。が、それは本当に妥当で達成可能な目標なのだろうか?
少なくとも、原始仏教の生きている国の人々は、この世界のありとあらゆる課題をブッダが2500年前に解決したと信じている(この意味では、イスラム教を信奉するアラブ世界の人々も同じかもしれない)。
仏教の真理は批判の余地がないというところから出発した南伝仏教の国々においては、仏教の教えを忠実に継承することが全てであって、思想的には「革新」も「発展」もなく今日に至っている。彼らにとっては、進歩は常に改悪でしかないのだ。
これは、たんに彼らが「頑迷固陋」なだけなのだろうか? 彼らの物質的な貧しさ、不衛生な環境、彼らの旧弊な保守主義を眉をひそめて笑うのは簡単だ。しかし、僕らが安んじて笑うことができるのは、そのほとんどの場合が物質的な豊かさを暗に根拠とした優越感によっている。
だが、日本という国が教えてくれたひとつの教訓は、物資的な豊かさは精神的な豊かさをなにも保証してはくれず、むしろ障害となることもありうる、ということだったのではないか。今日では、この教訓を頭から否定することは難しいだろう。にもかかわらず、僕らはなおかつどの方向へ「前進」しなければならないというのか。
・・・こうした課題を突きつけられている以上、僕はミャンマーのような国から学べる事柄は多いと思うのだ。
(続く)



