鳥の言葉を聴くー13年後のメモー最終回
 

以前の沖ヨガについての連載で、私は心身一如といい、「心は身体の反映であり、同時に身体は心の反映でもある」と書きました。
 

今回の連載では、私はさらに、「個人の問題は社会の問題であり、同時に社会の問題は個人の問題でもある」、と付け加えたいと思います。
 

そのわかりやすい例が、たとえば睡眠薬であり、宗教やスピリチュアリティであると思う。
 

睡眠薬は企業としての製薬会社が製造し、医療業界や政府機関、あるいは世論との交渉があり、その上で流通していく。
 

しかし、それが患者の手に入った時点で、薬はきわめてプライヴェートな役割を担うことになり、とくに、精神科で処方される薬は患者の意識を文字通り変えてしまう。
 

そして、全部が全部悪い方向にではないかもしれないけれど、その患者の人生をさえいくらか変えてしまうことになる。
 

ここでの私の話は、こうしたある特定の世代のサンプルだと考えていただければと思います。
 

それでは、最後に後日談をいくらかさせてください。
 

物語であれば、この後私は改心して、健康も取り戻し、周囲の人間からも見直されるようになる…という運びになるでしょうし、その方が私にとっても良かったでしょう。
 

しかし実際のところは、瞑想センターで私が熱中していた計画はどれも実を結ばず、状況はたいして変わりばえしなかった。
 

現実とはそういうものなのでしょう。
 

私が京都での10日間コースの後でしなければならなかったことは、数ヶ月にわたる睡眠薬の禁断症状に耐え、MNの仕事場を辞め、その後、自分がまったく興味を持てない派遣の仕事に就くことでした。
 

それはともかく、私はこの10日間で睡眠薬だけはやめることができました。自宅にストックしていた薬は用心のためしばらくそのままにしてありましたが、半年後くらいにまとめて棄てました。
 

私が依存していた睡眠薬は美しいエメラルドグリーンのパッケージに包まれ、それを振ると錠剤はかすかに乾いた音を立てたものです。
 

そのパッケージの美しさ、その乾いた音は13年後の今もはっきり思い出すことができますし、おそらく今後も長い間忘れることはできないでしょう。
 

ちなみに、すでに書いた通り、MNはそれから一風変わった教育者として有名になり、今日に至っています。
 

一方、この私はといえば、この間にさまざまな出来事があったものの、結局は今こうしてブログに、どうも意味があるのかないのかわからないような記事を書いている…。
 

私もとっくに世代交代に移行すべき年齢になっているのに、はたから見ればいつまでも遊んでいるようなものです。
 

正直に言って、友人が小さな子どもを連れていたりすると、多少羨ましい気持が動かないでもない。
 

しかし私は私で、ここでこうして宗教やスピリチュアリティが人間の成長に果たす役割について真剣に考えてもいる。
 

この連載では十分な形で提出できなかったのは残念ですが、作家志望の私が失敗した話をここに織り込んだのはこういう意味があります。
 

芸術や文学の世界は、ある意味ではスピリチュアルな世界によく似ていて、個人の私的なイマジネーションに依拠する部分が非常に大きい。
 

制作には全力を投じなければならないし、演劇や映画のような場合もありますが、基本的には個人作業なので、その生活も孤独なものにならざるをえない。
 

それで上手くいけば良いけれども、失敗すれば病気や狂気に、あるいは最悪の場合は自殺に近づく。これは大げさな話ではなく、私は実例を知っています。
 

まあ、ゴッホのような例もあって、もし彼の霊がいるとすれば死後の成功に慰められたのかもしれませんが、彼は天才だった。
 

しかし、大多数の人はそうではないし、本人は不幸で辛い思いを抱えて制作を続け、しかもその作品がつまらないものでしかなかったとしたら、もうどうにもならないではないか?
 

芸術や文学はこの社会に足場を持たなくては影響力を持てないし、本当に価値あるものとは言えない。
 

たとえそれがどんなに美しい、見事な文章で書かれていたとしても、どこかでこの社会に触れ合っていなければ、それは決して生きてこない。
 

20代の私にはその点がわからなかったし、それが若い私の挫折の意味だった。
 

スピリチュアリティにもまったく同じことが言えると私は思います。
 

もしそれがその人個人の資質を高め、それによって、その人が周囲に良い影響を与える機会となるのでなければ、スピリチュアリティはたんなる娯楽か、もっと悪くいえば脳のまたべつの部分をいじる睡眠薬みたいなものでしかない。
 

私はそう考えます。
 

私はヨーガや仏教の瞑想だけでなく、これまでに少なからずセラピーやヒーリングを試してきました。
 

そこでたしかな事実としてひとつ言えると思うのは、そのもっとも効果的な、もっとも自分に適した手法でさえ、一人の人間を変えていくには長い時間と、たゆみのない努力と、それを支える信念が必要だということです。
 

そこでは護符の力や宇宙の神秘よりも、個人の日々の誠実な働きがはるかに強くものを言う。
 

もし、私たちが自己の成長を本当に心にかけているなら、私たちは誰に頼ることなく、目標に向かって力のかぎり進んでゆかなくてはならない。
 

というわけで、この連載を締めくくるにあたって、私は冒頭にかえってもう一度あのアンサーリーの言葉を引用したいと思います。
 

水の上を歩けたとしても
一本の藁と変わるところはない
空中を飛べたとしても
一匹のハエと変わるところはない
心を抑え
ひとかどの人間になるよう努めるべし
 

スリランカ。ポロンナルワ遺跡。