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日本の未来のために、スポーツと健康運動の推進を!

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 二階派の自見英子地方創生相の派閥退会について、朝日新聞デジタルは「結束を乱し、派の弱体化につながる『足抜け』にはことのほか厳しい声が出る」(2023.12.22)と記しています。また、二階元幹事長は、テレビで「派閥に入るのは簡単だが簡単には抜けられない」という意味のことを言っていましたが、これらの表現はまさしく暴力団そのものです。
 その理由は、自民党と暴力団の活動が同じ構造になっているからです。両団体とも、物を作ったり売ったりして金を稼ぐのではなく、それらの団体に寄生して金を稼いでいます。企業献金とみかじめ料です。ですから、議員が派閥に入る時も、派閥の重要視する理論傾向ではなく、どの派閥に入れば居心地がいいかあるいは早く大臣になれるか、あるいは派閥の長の人柄などを基準に決めます。これは暴力団への入会と同じです。○○組の組長に惚れた、ここは知り合いが多い、ここは羽振りがいい等の理由は自民党と同じ構造です。暴力団のあり方に惚れることがないように、自民党の派閥の思想性に惚れて入る人はいません各派閥は資金確保の方法に差があっても、派閥の政治思想には差がないからです。実際、テレビのインタビューを聞いていても、「派閥のこの政策に近いから入った」という意味の発言は聞いたことがありません。
 そもそも、自由主義とは競争参加の平等を第一に考える思想であり、民主主義とは結果の平等を第一に考える思想のはずです。ですから、自由党と民主党が合同した段階で、統一理念は労働者を支援する社会党から企業を守ることだけであり、その企業からチップをもらうのは当然となります。
 それでも、統一当時は自由党の理念と民主党の理念をある程度は意識していたものと思われますが、現在の自民党内のまともな議論を聞いたことがありません。わずかに、自民党の総裁選で河野太郎と高市早苗の論争が印象に残っています。河野がベイシックインカムを取り上げた時、高市は基礎年金の充実で十分と答えました。しかしさらに河野が、年金は免除期間があると満額もらえないと発言したところで、別の話題になってしまいました。年金かベーシックインカムかは賃金格差が拡大していく今後の高齢化社会で重要なテーマになると思われるのですが、これでは「とりあえず議論をしたというポーズが取れた」ということになってしまいます
 政治活動費への不記載で揺れる現状の自民党は、政治理論の違いによっていくつかに分裂する以外、利権政党として少しずつ没落する以外生き残れないのではないでしょうか。

 裏金問題と関連して、田崎史郎氏の「当選するために『地元を耕す』って言い方しますけど、自民党の場合 、地元の人から『この道路どうにかしてくれ』とか色んな陳情がある、その陳情処理をしないと票が確保できないのが現実」という発言がフェイスブック上でだいぶ叩かれていましたが、私は同じテレビで彼が例示した年始の挨拶(に伴う挨拶料)の必要性の方が問題だと思います。その理由を以下に述べます。
 江戸時代まで、日本人は贈与と互酬関係で結ばれた「世間」に生きていました。明治になって個人が社会を形成する民主主義の理念が入って来ましたが、世間を捨て去ることはできませんでした。自分が個人として意見を言う場合でも、周りとの人間関係に配慮して発言するのは今でも常識と考えられています。そのため、反対意見を言う場合でも「あなたの考えにも一理ありますが、」と前置きしてから反論しないと、礼儀をわきまえない不埒な人物というレッテルを貼られてしまいます。
 でも、政治を議論するということは、意見が異なることを前提とした会話であり、どちらがより良い政策であるかの決着を付けるために行うことではないでしょうか。そうであれば、仲間や支持者と会って話をする時に手土産や挨拶料はいらないはずです。ところが、阿部謹也が世間におけるルールを贈与・互酬の関係と指摘したように、各人が特定の位置を占める「世間」の中で生きている日本人は、平等な個人で形成される「社会」のルールである政策論争をする場合も、贈与が欠かせないことになるのです。本当は、各人にはそれぞれの立場があるので真の議論はなしえず、平等な他者を論破しても票は獲得し得ず、お盆正月や冠婚葬祭の挨拶回りが票に直結するわけです。でも、議会制度は民主「社会」の制度ですので、この日本的「政治活動」に使う金は想定されていませんので、このままでは会計処理できず裏金が必要になるのです。
 私の「自民党は利権政党だ」という主張は、自民党が民主主義「社会」での利権集団という意味ではなく、自民党は「世間」という特殊日本社会において必然的に生じる利権集団だという意味です。「世間」は、長い年月をかけて自然にできあがったひとまとまりの権力装置です。そのため、その改革の実行には、それが“自然に”世間の常識になるまで待たなければなりません。ですから、自民党の政治刷新会議の議論でマスコミが期待するような回答が得られるわけはありません。「世間の革新」は論理矛盾であり、「世間を否定した新しい政治体制への革新」がスローガンでなければならないのです。そして、その新しい政治体制が、民主主義社会です。
 自民党において女性議員を増やそうというスローガンが全く実現できていないのも同じ理由です。ですから、本当に女性議員を増やそうとすればクォーター制のような強制力のある取り決めが不可欠であり、一方世間はそのような急激な人間関係を認めませんので実行が伴わなくて当然です。いくら問題があっても国民の3割が自民党支持者であるということは、日本人の3割はいまでも「社会」ではなく「世間」を生きているということです。
 このような日本でも、世界に公言している政治体制は民主主義体制ですので、政治問題の解決は世間の縛りをなくした理性的討論によってのみ可能です。そのためには、人脈や金脈に関係なく選ばれた議員が議論する必要があり、現在の自民党にはない物ねだりです。しかし、野党においても、「世間」の力で当選した議員は少なくなく、次の総選挙で彼らを一掃することのみが、日本の未来に繋がると考えます。
 その理由を以下に考察します。
 前出の阿部は『近代化と世間』において、「それ(贈与関係)は人格としての自分ではなく、自分の場に与えられたものだからです。『世間』の中における場には生まれや年齢、地位、財産などによって序列があり、すべての場が対等であるわけではないからです。しかし場の均衡によって『世間』の秩序が保たれているのです」と書いています。そして、世間における真実について「それは個人の日常の振る舞いの中に求められていたと思われます。したがって明治以前の人々には言葉は基本的に一つでしたから、言葉と振る舞いの乖離はほとんどありませんでした。明治以降欧米の概念が入ってきてから、言葉は振る舞いから切り離され、両者は乖離していったのです」と考察しています。
 明治期に、日本は議会制民主主義体制という独立した「個人」が競い合って「社会」を形成する国家体制をとりましたが、「国体」という得体の知れない概念を発明して「世間」を永続させようとしました。その流れに乗っていたのが自民党(的政治世界)であり、西欧的振る舞いをまねたインテリが作った社会党とで55年体制を作りました。したがって、「世間」の裏打ちのない改革は常に改革倒れに終わったのです。そのため、近代化した(と思われた)日本社会の中での行動にも「世間」の側から裏打ちされなければなりませんでした。阿部が、「日本における個人は西欧の個人とは絶対に同じではない」と何度も強調しているように、これまでの日本は疑似民主主義社会であり、それが、リクルート事件以降も生き延びてきた自民党一党政治だったのです。今回の事件は、日本が国際社会で一流国でいられる本格的改革の最後のチャンスだと思われます
 最後に、警句として阿部謹也の言葉を紹介してこの項を終わります。

自画像の欠如
 一人の人間としての生き方だけでなく、政治家も「世間」の中で生きているから「世間」の掟に従って行動している。派閥はその典型であり、政治家たちは自分が所属する派閥の中から大臣がたくさん出て、総理が出ることを最終的な目的としている。将来の日本のあり方などは言葉の上だけの議論に過ぎず、現実にはほとんど意識にのぼっていない。「世間」には時間が特異な形でしか流れていないからである。(『近代化と世間』p93)

 民主主義発祥の地イギリスでも、議会制度の初期には買収が横行していたそうです。しかし、長年の努力で現代の英国ではその風潮はまったくないようです。しかしながら、日本では、政治改革を何度やっても政治と金の問題が改められないままなのです。
 その元兇はおそらく実質的な首班指名選挙であった自民党の総裁選でしょう。1964年の池田勇人が3選されるかどうかの総裁選では数億円が飛び交ったと噂され、現金を2陣営からもらう「ニッカ」、3陣営からもらう「サントリー」、全陣営からもらって白紙投票する「オールドパー」といった、ウイスキーになぞらえた隠語も広まったようです(読売オンライン、2021.9.11)。
 ここで重要なのは、飛び交った買収金の金額ではなく、候補者の賛否が候補者の理念が自分の考えに合うかどうかではなく、依頼する人間の資質・心情に左右されることです。裏金を作る理由として、支持者が上京した時に銀座でもてなす金が必要になるからと、最近のテレビで解説されていましたが、本来であれば、支持者は議員の考え方、理念や行動に共感して支持しているわけですから、普通の飲み屋に行って最新の政策談義をすればいいのであって、10万円や100万円を使って豪遊する必要はないはずです。
 こうなるのは、何度も言うようですが、自民党が理念政党ではなく利権政党だからです。自民党は自由主義の理念も民主主義の理念も持ち合わせていない政党なのです。しかし本当は、そのような利権政党がこれほど長く日本を支配し続けられたのはなぜか、を考えない限り前には進めません。より正しく表現すると、自民党の延命を必然としてきた日本人のあり方が問われているということです。
 民主主義が独立した個人が集まった社会で産声を上げて成長してきたことは、上記のイギリスの例をみても明らかですが、明治以前に「個人」も「社会」も存在しなかった日本では、選挙制度は取り入れてみたものの、選挙で政策を争う「個人」は存在していませんでした。選挙に行ったのは、昔ながらの世間に縛られた人びとです。世間学を提唱した阿部謹也は、日本における「個人」はヨーロッパにおけるような他者から独立した「個人」ではなかったし、今でもそうだと言い切っています。
 日本は個人の欲求よりは周り(世間)の意向を踏まえて行動することをよしとする社会ですので、個人が確立していない日本人はみながよしとする与党に投票することになります。世間の支配力とは現行の社会をそのまま維持しようとして働く力ですので、現行に満足している人びと、つまり、保守勢力にとっては願ってもない力となります。ということは、社会的に不幸を背負ってきている陣営にとっては不都合な力ですが、選挙が世間の中で行われますので、世間の慣行をすべて否定するわけにもいきません。慣行をすべて否定して西欧型の民主主義に突然移行することは多数国民の支持を得られません。前回の政治資金規正法制定時も、理念を完全に実現できずに、企業団体献金の廃止がみおくられ、未だに実現できていません。その理由の1つには、野党も組合からの献金があり、それを廃止すると世間の抵抗にあうこともあると思います。
  阿部は、世間を構成している三つの原理の一つに、人びとをつなぐものとしての贈与・互酬関係をあげています(『世間学への招待』)。投票が候補者の理念への共感ではなく贈与として行われるために「ありがとうございます」の連呼が流され、互酬関係を維持するために返礼がなされるわけです。特に、世間の中で地元の地方議員との関係が作られていると、地方議員が上京した時には格段の配慮(彼らを喜ばすための高価な接待や贈り物)が必要となるのです。したがって、このような接待があったとしても、民主社会の一員が持つような罪の意識が双方に生まれるはずがありません。議員と一住民の関係も同様に捉えることができます。

最近は日本の雰囲気もだいぶ西欧並みになり個人の発言も多くなりましたが、世間をまったく無視することは不可能だし、よい選択とは思えません。阿部は日本の「個人」西欧の「個人」とはまったく違うと言っていますが、西欧の「個人」のいいところを取り入れて「世間」のいいところも残して世界に発信することが日本人には求められていると思います。政治にあっては西欧の「個人」の政策提案競争を取り入れて正しい政治選択を実現し、戦争にあっては日本の「世間」の紛争解決術を取り入れさせて和平につなげることが、日本および日本人が世界に飛躍するカギになると思います。