選挙は日本世間の縮図:社会を作れない日本の「個人」 | 日本の未来のために、スポーツと健康運動の推進を!

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 裏金問題と関連して、田崎史郎氏の「当選するために『地元を耕す』って言い方しますけど、自民党の場合 、地元の人から『この道路どうにかしてくれ』とか色んな陳情がある、その陳情処理をしないと票が確保できないのが現実」という発言がフェイスブック上でだいぶ叩かれていましたが、私は同じテレビで彼が例示した年始の挨拶(に伴う挨拶料)の必要性の方が問題だと思います。その理由を以下に述べます。
 江戸時代まで、日本人は贈与と互酬関係で結ばれた「世間」に生きていました。明治になって個人が社会を形成する民主主義の理念が入って来ましたが、世間を捨て去ることはできませんでした。自分が個人として意見を言う場合でも、周りとの人間関係に配慮して発言するのは今でも常識と考えられています。そのため、反対意見を言う場合でも「あなたの考えにも一理ありますが、」と前置きしてから反論しないと、礼儀をわきまえない不埒な人物というレッテルを貼られてしまいます。
 でも、政治を議論するということは、意見が異なることを前提とした会話であり、どちらがより良い政策であるかの決着を付けるために行うことではないでしょうか。そうであれば、仲間や支持者と会って話をする時に手土産や挨拶料はいらないはずです。ところが、阿部謹也が世間におけるルールを贈与・互酬の関係と指摘したように、各人が特定の位置を占める「世間」の中で生きている日本人は、平等な個人で形成される「社会」のルールである政策論争をする場合も、贈与が欠かせないことになるのです。本当は、各人にはそれぞれの立場があるので真の議論はなしえず、平等な他者を論破しても票は獲得し得ず、お盆正月や冠婚葬祭の挨拶回りが票に直結するわけです。でも、議会制度は民主「社会」の制度ですので、この日本的「政治活動」に使う金は想定されていませんので、このままでは会計処理できず裏金が必要になるのです。
 私の「自民党は利権政党だ」という主張は、自民党が民主主義「社会」での利権集団という意味ではなく、自民党は「世間」という特殊日本社会において必然的に生じる利権集団だという意味です。「世間」は、長い年月をかけて自然にできあがったひとまとまりの権力装置です。そのため、その改革の実行には、それが“自然に”世間の常識になるまで待たなければなりません。ですから、自民党の政治刷新会議の議論でマスコミが期待するような回答が得られるわけはありません。「世間の革新」は論理矛盾であり、「世間を否定した新しい政治体制への革新」がスローガンでなければならないのです。そして、その新しい政治体制が、民主主義社会です。
 自民党において女性議員を増やそうというスローガンが全く実現できていないのも同じ理由です。ですから、本当に女性議員を増やそうとすればクォーター制のような強制力のある取り決めが不可欠であり、一方世間はそのような急激な人間関係を認めませんので実行が伴わなくて当然です。いくら問題があっても国民の3割が自民党支持者であるということは、日本人の3割はいまでも「社会」ではなく「世間」を生きているということです。
 このような日本でも、世界に公言している政治体制は民主主義体制ですので、政治問題の解決は世間の縛りをなくした理性的討論によってのみ可能です。そのためには、人脈や金脈に関係なく選ばれた議員が議論する必要があり、現在の自民党にはない物ねだりです。しかし、野党においても、「世間」の力で当選した議員は少なくなく、次の総選挙で彼らを一掃することのみが、日本の未来に繋がると考えます。
 その理由を以下に考察します。
 前出の阿部は『近代化と世間』において、「それ(贈与関係)は人格としての自分ではなく、自分の場に与えられたものだからです。『世間』の中における場には生まれや年齢、地位、財産などによって序列があり、すべての場が対等であるわけではないからです。しかし場の均衡によって『世間』の秩序が保たれているのです」と書いています。そして、世間における真実について「それは個人の日常の振る舞いの中に求められていたと思われます。したがって明治以前の人々には言葉は基本的に一つでしたから、言葉と振る舞いの乖離はほとんどありませんでした。明治以降欧米の概念が入ってきてから、言葉は振る舞いから切り離され、両者は乖離していったのです」と考察しています。
 明治期に、日本は議会制民主主義体制という独立した「個人」が競い合って「社会」を形成する国家体制をとりましたが、「国体」という得体の知れない概念を発明して「世間」を永続させようとしました。その流れに乗っていたのが自民党(的政治世界)であり、西欧的振る舞いをまねたインテリが作った社会党とで55年体制を作りました。したがって、「世間」の裏打ちのない改革は常に改革倒れに終わったのです。そのため、近代化した(と思われた)日本社会の中での行動にも「世間」の側から裏打ちされなければなりませんでした。阿部が、「日本における個人は西欧の個人とは絶対に同じではない」と何度も強調しているように、これまでの日本は疑似民主主義社会であり、それが、リクルート事件以降も生き延びてきた自民党一党政治だったのです。今回の事件は、日本が国際社会で一流国でいられる本格的改革の最後のチャンスだと思われます
 最後に、警句として阿部謹也の言葉を紹介してこの項を終わります。

自画像の欠如
 一人の人間としての生き方だけでなく、政治家も「世間」の中で生きているから「世間」の掟に従って行動している。派閥はその典型であり、政治家たちは自分が所属する派閥の中から大臣がたくさん出て、総理が出ることを最終的な目的としている。将来の日本のあり方などは言葉の上だけの議論に過ぎず、現実にはほとんど意識にのぼっていない。「世間」には時間が特異な形でしか流れていないからである。(『近代化と世間』p93)