裏金問題でもっとも重要な視点:なぜ裏金は必要か | 日本の未来のために、スポーツと健康運動の推進を!

日本の未来のために、スポーツと健康運動の推進を!

政治活動のためのブログです。ホームページはhttp://tsugisaki.sakura.ne.jp/です。

 民主主義発祥の地イギリスでも、議会制度の初期には買収が横行していたそうです。しかし、長年の努力で現代の英国ではその風潮はまったくないようです。しかしながら、日本では、政治改革を何度やっても政治と金の問題が改められないままなのです。
 その元兇はおそらく実質的な首班指名選挙であった自民党の総裁選でしょう。1964年の池田勇人が3選されるかどうかの総裁選では数億円が飛び交ったと噂され、現金を2陣営からもらう「ニッカ」、3陣営からもらう「サントリー」、全陣営からもらって白紙投票する「オールドパー」といった、ウイスキーになぞらえた隠語も広まったようです(読売オンライン、2021.9.11)。
 ここで重要なのは、飛び交った買収金の金額ではなく、候補者の賛否が候補者の理念が自分の考えに合うかどうかではなく、依頼する人間の資質・心情に左右されることです。裏金を作る理由として、支持者が上京した時に銀座でもてなす金が必要になるからと、最近のテレビで解説されていましたが、本来であれば、支持者は議員の考え方、理念や行動に共感して支持しているわけですから、普通の飲み屋に行って最新の政策談義をすればいいのであって、10万円や100万円を使って豪遊する必要はないはずです。
 こうなるのは、何度も言うようですが、自民党が理念政党ではなく利権政党だからです。自民党は自由主義の理念も民主主義の理念も持ち合わせていない政党なのです。しかし本当は、そのような利権政党がこれほど長く日本を支配し続けられたのはなぜか、を考えない限り前には進めません。より正しく表現すると、自民党の延命を必然としてきた日本人のあり方が問われているということです。
 民主主義が独立した個人が集まった社会で産声を上げて成長してきたことは、上記のイギリスの例をみても明らかですが、明治以前に「個人」も「社会」も存在しなかった日本では、選挙制度は取り入れてみたものの、選挙で政策を争う「個人」は存在していませんでした。選挙に行ったのは、昔ながらの世間に縛られた人びとです。世間学を提唱した阿部謹也は、日本における「個人」はヨーロッパにおけるような他者から独立した「個人」ではなかったし、今でもそうだと言い切っています。
 日本は個人の欲求よりは周り(世間)の意向を踏まえて行動することをよしとする社会ですので、個人が確立していない日本人はみながよしとする与党に投票することになります。世間の支配力とは現行の社会をそのまま維持しようとして働く力ですので、現行に満足している人びと、つまり、保守勢力にとっては願ってもない力となります。ということは、社会的に不幸を背負ってきている陣営にとっては不都合な力ですが、選挙が世間の中で行われますので、世間の慣行をすべて否定するわけにもいきません。慣行をすべて否定して西欧型の民主主義に突然移行することは多数国民の支持を得られません。前回の政治資金規正法制定時も、理念を完全に実現できずに、企業団体献金の廃止がみおくられ、未だに実現できていません。その理由の1つには、野党も組合からの献金があり、それを廃止すると世間の抵抗にあうこともあると思います。
  阿部は、世間を構成している三つの原理の一つに、人びとをつなぐものとしての贈与・互酬関係をあげています(『世間学への招待』)。投票が候補者の理念への共感ではなく贈与として行われるために「ありがとうございます」の連呼が流され、互酬関係を維持するために返礼がなされるわけです。特に、世間の中で地元の地方議員との関係が作られていると、地方議員が上京した時には格段の配慮(彼らを喜ばすための高価な接待や贈り物)が必要となるのです。したがって、このような接待があったとしても、民主社会の一員が持つような罪の意識が双方に生まれるはずがありません。議員と一住民の関係も同様に捉えることができます。

最近は日本の雰囲気もだいぶ西欧並みになり個人の発言も多くなりましたが、世間をまったく無視することは不可能だし、よい選択とは思えません。阿部は日本の「個人」西欧の「個人」とはまったく違うと言っていますが、西欧の「個人」のいいところを取り入れて「世間」のいいところも残して世界に発信することが日本人には求められていると思います。政治にあっては西欧の「個人」の政策提案競争を取り入れて正しい政治選択を実現し、戦争にあっては日本の「世間」の紛争解決術を取り入れさせて和平につなげることが、日本および日本人が世界に飛躍するカギになると思います。