世に奇跡の合格はあります。
業界に長くいるくらいしか取り柄のない私でも、奇跡の合格に行きあたったことは一度のみならずあり、ビリギャルが世に出たときには、私も本を書いておけば…など、恥ずかしながら甚だしい思い違いをしたこともあります。
詳しくは書けませんが、小5の遅くから始めて御三家合格、小6夏から始めて早慶附属合格などの奇跡の合格を目撃しました。
目撃した、というのは、私はその子たちに基礎を教え、その勉強のメニューは考えはしましたが、問題の解き方自体はあまり教えた記憶がないからです。私から見れば、いつの間にかの合格でした。国語は文章の解説と記述答案のダメ出しだけをし、算数は知っておくべき基本の説明のほかは、わんこそばのように応用問題を与え、解説は自分で読ませたくらいです。理社に至っては、時間がないという理由で、基本のインプットの計画だけつくって自分でやらせ、主に記述、応用問題をやはりダメ出ししたくらいです。あまりに時間がなかったので、サクサク進めるためにとった窮余の策でした。
まあ、不親切なもので、よく親御さんからお叱りを受けなかったものだと思います。当の本人たちは、教えられる部分が少ないことに何も不満は言いませんでした。そもそも丁寧に教えられる楽さを知らなかったのですから、言いようがなかったのです。
ただし、直前まで苦しみながら取り組んではいました。
彼らは、ある意味、放置されていたので、様々なことを自分で考え、自分でこなすしかなかったのです。身体的にも、精神的にも非常にしんどいことですが、彼らはアウトプットにあたっては悪効率のやり方を散々繰り返しました。傷だらけになって、最終的には自分に最適化したやり方を実践できていました。インプットができていて、アウトプットも正しくできれば試験は突破できる仕組みになっていますから、彼らの合格は、模試の結果だけで奇跡と呼ばれているに過ぎない、必然の合格だったのかもしれません。大人の補助が必要なアウトプットは、試験の前には歯が立たないものですが、彼らのアウトプットは大人の手を必要としない自立したものだったのです。
かつては、インプットもアウトプットも手厚くというのが良い仕事と考えていました。今は,自分で考えて動く、12歳の誰もがが実践できることとは思いませんが、誰にでもアウトプットにおいてそうしてみる環境は与えたほうがいいのだと、考えています。つまり、いかにして放ったらかしにしておくか、いかにして手をかけないか、いかにして見守るか、そんなことを心がけて仕事をしています。
インプットはこちらが方法や内容を考える必要があるかもしれませんが、アウトプットは課題だけ与えて、あとは放ったらかす。無駄な補習はしない。子どもが初めて補助輪なしの自転車に乗るときに、敢えて手を離す親の心境で受験する子どもを支えたい、それが私の仕事観です。