Yokoi Hideaki

Yokoi Hideaki

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今日は表題をテーマに書くことにしましたが、その前にこれを書こうと思ったきかっけを述べたいと思います。

下は五井先生の一番弟子と言われた高橋英雄さんのご晩年の著作です。

 

 

 

久しぶりにこの本を本棚から取り出して、パっとページを開いたら、冒頭近くの次の文章が目に留まりました。(以下転載)

 

五井先生の五か条

私は五井先生を鑽仰(さんこう)すること限りなく、讃美することにきりがありません。 他人が聞くと「またか」と虫酸が走るほどだと思います。けれど私は人になんと言われようと、五井先生を鑽仰しつづけます。それが私の使命であり、私の命が最も喜ぶことだからであります。

 

ある日、「凡夫易行実践五か条を教えてください」と、五井先生あてに手紙で質問が来ました。

五井先生は次のように五か条をすぐおあげになりました。

 

一、肉体の自分では何事もなし得ないのだと、徹底的に知ること。

二、なんて自分はだめなんだろう、と思ったら、すぐそれは過去世の因縁の消えてゆく姿と思い、世界平和の祈りをすること。

三、たゆみなくつねに祈ること。

四、何事も自分がやるのではなく、神さまがやってくださるのだ、と思うこと。

五、朝起きたら祈り、夜寝る前、少し時間をかけて祈ること。 そうすると自然と臍下丹田に息がおさまる。

 

第一条にあげた「肉体の自分では何事もなし得ないのだ、と徹底的に知ること」とおっしゃったあとに、「これがわかったら悟ったと同じだ」と先生はおっしゃっていました。それほど重要なことでして、肉体の人間では何事もなし得ない、ということに徹底されたのが五井先生でした。そういう風に思わざるを得ない事実に、何回もぶつかって、そう思うようになられたんだと思います。

 

肉体の人間だけでは何もできないとわかって、神さま!、と神さまの中に飛び込んでゆかれた。そしてひたすら神さまを想いつづける、ということをなさった。

 船が一航海を終えて港に帰ってくると、船底から船腹に、貝がらがビッシリとついていると言います。それをそぎ落して、ペンキをぬり直して、また新しい航海へ出るわけでありますが、五井先生はご自分につく、少しの肉体人間観という貝がらを、毎日、内省してそぎ落としておられたと思います。

 

人間は肉体である、という想いから人類はなかなか抜けられません。

どんな聖者も、肉体を持ち肉体世界で生きている以上、肉体世界の様々な波動がふれてくるわけですから、汚れないわけがありません。それを放置しておけば即、死につながるのが聖者です。

 

五井先生は厳しく内省して、肉体人間の習慣の想いを浄めておられました。五井先生ですらそうなのか、と思うほど、先生は内省のことを皆の前で、サラリとお話なさっておられました。それを伺い、私は感動したものです。今回は、私の知る限りでの、五井先生の肉体人間観からの脱皮をお話したいと思います。(後略)

 

以上が私の目に留まった文章ですが、特に目を引いたのは「凡夫易行実践五か条」です。

前回ブログで私は、中村天風師の「観念要素更改法」や「安生打座法」は「上根の人」のための自力の難行道、これに対して五井先生の「消えてゆく姿で世界平和の祈り」は「下根の凡夫」のための他力の易行道であると書きました。

ここで高橋さんがおっしゃっていることも同じことのように思います。

 

しかし、これを読んで一番最初の「肉体の自分では何事もなし得ないのだと、徹底的に知ること」に対してはちょっと違和感を感じる人がいらっしゃるのでないでしょうか。「肉体の自分の努力なしに、神様頼みだけで本当の良いのか」という違和感です。

 

もちろん、五井先生は「努力」なしの「神頼み」を勧められているわけではありません。

それでその理由も含めて、この五か条をブログで紹介したいなぁ、と思っていたら、たまたま毎朝の習慣で読んでいる古い五井先生の会の会報(昭和43年の白光誌2月号)の「職業に使命感を」という五井先生の「人生講話」が目に留まりました。

 

ここで五井先生がお書きなのは、意に沿わない職業や職場にいる人へのアドバイスですが、それに限らず、夫婦や家族関係、またご近所関係や友人関係などあらゆる「意に沿わない環境」に悩んでいる方へのアドバイスになるお話です。

よってもしそのような環境にいらっしゃる方がいらっしゃれば、自分の問題に引き寄せてお読みいただきたくここに紹介するものです。以下転載です。

 

職業に使命観を

まず真剣に取り組め

この世の中には、自分の職業に喜びを感じて働いている人が、意外と少いのですが、本当はそれでは使用者側も当人も面白い結果にはなりません。たとえどんな職業にしても、その職業についている以上は、真剣にその職業に取り組んでゆかなければいけないのです。

 

いわれなくともそんなことはわかっている、とその人たちはいうかも知れません。わかっているなら、どんな工夫や訓練をしてでも、真剣に取り組めるような状態に、自分を持ってゆかなければなりません。もし、その職業が嫌で真剣になれないのなら、即座に辞めてしまって、自分が真剣になれそうな職業についたらよいのです。

 

それは自分自身で独立してはじめようと、就職しよう自分自身の考え一つでよいわけです。

ただ嫌だ嫌だ、で日々をくらしているより、いさぎよくすっぱりやめてしまったほうが男らしいというものです。そんな人を雇っておくのは、使用者側にとっても迷惑なわけです。

 

しかし、そこをやめても、他に適する職業がありそうにもない、と尻ごみする人なら、現在の職業に合わせてゆくよう、自己の心を訓練してゆくより仕方がありません。

どんな職業でも、心の持ち方によっては面白い職場になるものでありまして、心が乗ってゆかないから、そこが面白くないのであります。

私はいつも申しますが、自分の置かれた環境や立場というものは、過去世からの自分自身の心がつくっているのでして、自分の心の持ち方を変えてゆかない限りは、いつまでも、何度変えても、やはり同じような場にそこがなってくるのです。

 

野球でもテニスでも間違ったフォームでやっていたなら、いつまでたってもよい成績は得られないと同じように、自己の職業や運命全般でもその通りで、心の姿勢が間違ったままでいたなら、よくなる道理がありません。

 

会社が悪いとか、上役が嫌だとか、職種が悪いとか、ぶつぶついう人が多いのですが、それは現在の自分が選んだわけではないようですが、実は過去世から今日までの、自分の心の持ち方によって定まった、会社であり、職種であり、対人関係なのであります。

 

学歴優秀で大学を出た人が、さまで優れた成績でなかった後輩に追いぬかれたような場合に、「あいつは上役におべっかつかいやがって」と、その人が上役の機嫌を取るのがうまいので、いいポストについたのだ、自分はそういうことができぬから、よいポストにつけないのだ、というように人々にこぼし話をしたり、学歴のよい人がどんどん上になってゆくので、自分の学歴のないのを自嘲して、世をひがんでしまったりする人がいるのですが、ともにお粗末な心の人たちだと思います。

 

その人にはおべっかつかいにみえましょうとも、それは目上に引き立てられる一つの才能でもあるので、それだけで軽蔑の目をもってみることはできません。その人が相手より、そういう点の才能が落ちているのですから、仕方のないことです。

 

そんなことで、とやかくぼやいているより、自身に備わった才能を発揮して、大いに会社に役に立ったら、自ずと重要なポストに据えられるのです。そんなところで人を悪くいい、自己の存在価値を主張しようとしたところで、かえって逆な結果になるだけで、上役や同輩に、たいした人間ではないと、軽蔑の目でみられるだけです。

 

また、学歴のない人が、学歴のある人を羨やんだり、ひがんだりするのも馬鹿なことで、すべて、過去世から今日まで自分で積んできた行為の結果がそこに現われているのでありまして、誰を悪く思い、誰を恨む、という筋合のものではありません。

 

すべては女性に生れたことを悲しみ 男性に生れた自分を悔いたところで仕方がないと同じように、宿命的なものなのです。いいかえれば過去世からの因縁因果なのです。

ここは一番、はっきり明らめ (諦) て、現在ある自分自身を、じつくり見直し、すっぱり裸の心になって、そこから改めて自分の運命の道を出発しなおすとよいのです。

 

(中略 戦前と戦後の社会の変化をお話になり・・・)

戦前の会社の在り方と現在の在り方では大きな差異がありまして、上下の幅が随分と縮まり、重役と社員や工員の心の交流もかなり自由になってきして、使用者側と労働者側というように分れてはおりますが、昔のそれとはまるで違った隔てのないものになっています。確に昔とは比ぶべくもないほど、働きやすい職場になっています。

 

こんな働きやすい職場になっていても、職場で真剣になれなかったり、職場が嫌でならなかったりする人は、どこか自分の方に欠陥があることは確かなのです。そういう人は自分の心の欠陥に気づくまで、とことんまで職場を変えてみて、最後にどうにもならなくなり、あぁ、私は間違っていたと思うまでやってみるとよいのです。

 

そうすれば、今生ではもうそれでおしまいかも知れませんが、来生(未来の世代)の大きな経験になって、今度は自己をよくみつめる、真面目な真剣な人間になって生れ変ってくることでしょう。そこまでつきつめて考えてみて、職場を改めて見直してみる必要があるのです。

 

職場環境を生かす努力を

どんな小さな職場でも、つまらなそうな職場でも、自分の生命を真剣に生かすことはできます。職場がどうの、職業がどうのというより先に、常に自分が真剣である、ということのほうが大事なので、一つのことに真剣な人は必ず幸福をつかむ人です。

 

たとえその時の職業や職場が自分に合わぬところであっても、いったん置かれた環境であれば、そこで真剣に自分を生かす道を見出すことが大事なのでありまして、そういう人は、必ず自分に最も適した職場が与えられるにきまっているのです。

 

何故ならば、その人の心境は常に神から分けられた生命を生かしきっているからでありまして、学校でいえば、中学や高校や予備校にいる段階をすでに超えていて、本番一本で勝負のできる心の状態になっているからなのです。

 

自己にそぐわぬ環境とか、職場とかいうものは、その人の精神を磨くために、守護の神霊が、そういう状態にあてはめているのでありまして、そうした職業や環境を嫌って逃げようとしたり、怠けたりしていれば、いつまでたっても同じように、心にそまぬ職業や環境が現われてくるのであります。

 

小学校を出ねば中学にゆかれぬ、中学を出なければ高校には入れぬ、と同様なことが、この社会でも行われているのです。その真理を知ることによって、人間は一段と進歩をしてゆくのであります。

 

ですから、もしあなたの職場環境が自分の心に染まぬものであったら、あぁ、これは自分の心を磨くために神様が私の修行場として与えて下さったところなのだ、と思って、その職場や環境を生かすように努力する必要があるのです。

 

そこで私が常に申している、悪いことや嫌なことはすべて(自分の持って生まれた運命、宿業が)消えてゆく姿とみて、その消えてゆく姿を、世界人類の平和を願い、自己の天命の完うされることを祈る、世界平和の祈りの中に入れつづけてゆくとよいのであります。

たゆみない世界平和の祈りの中からは、必ずあなたの天命の完うされる立場が、職場の中からか、または他の場からか、どちらにしでもはっきり現われてくるのです。

 

ですから、今置かれた職業に使命観をもって、真剣に取り組んでゆくことが大事なのです。目の先の落し穴に落ちぬように、不平不満の想いはすべて消えてゆく姿として、平和の祈りの中に入れきってしまいましょう。あなたを日常茶飯事の中でも守りつづけているあなたの守護の神霊が、必ず祈りに応えてうまくやってくれるにきまっているのであります。

(転載おわり)

 

前回ブログで、五井先生が「この人生の80%、否95%はその人の過去世の想念行為によって定まっている」とおっしゃっていたことを紹介しました。ここで五井先生が「今あなたのいるところは、たとえ意に沿わないものであっても、すべてあなたの過去世の因縁因果の結果である」とお述べなのも同じことです。

 

さらに五井先生はその意に沿わない状況に対しても真剣に向き合うことの重要性についてもお話です。この「人生講話」のテーマは職業ですが、これを読んでいてピーター・ドラッカーが、経営、仕事において最も重要な資質は「真摯さ」であると言っていたことを思いだしました。「真摯さ」は原文では「integrity」です。これを「真摯さ」と訳したのは訳者の上田さんの名訳だと思いますが、この「真摯さ」は仕事だけでなく、人生に向き合う基本姿勢を示したもので、仕事、職業だけの問題ではありません。

 

先に「仕事や職業だけでなく、夫婦関係、家族関係、ご近所関係、友人関係も同じ」と述べましたが、わが身に起こるすべての状況に対して、「単なる偶然・たまたま」と受け止めず、自身の心の姿勢、さらに運命を改める絶好の機会である、と受け止めることの重要性をここで五井先生はお述べです。ドラッカーが「真摯さ」を説く意図も同様なのでしょう。

 

さて、今日の結論です。もし意に沿わない環境に悩んでいる方がいらっしゃったなら、ジタバタせず、あれこれ悩まず、冒頭紹介した以下の「凡夫易行実践五か条」を早速やってみることです。

 

一、肉体の自分では何事もなし得ないのだと、徹底的に知ること。

二、なんて自分はだめなんだろう、と思ったら、すぐそれは過去世の因縁の消えてゆく姿と思い、世界平和の祈りをすること。

三、たゆみなくつねに祈ること。

四、何事も自分がやるのではなく、神さまがやってくださるのだ、と思うこと。

五、朝起きたら祈り、夜寝る前、少し時間をかけて祈ること。 そうすると自然と臍下丹田に息がおさまる。

 

これまでもこのブログに書いてきたように、読者の皆さん、お一人ひとりの背後には、魂的に縁が深い悟ったご先祖様である守護霊さま、さらにその上位に守護神さまがいらして瞬時の暇なく、皆さんをお守りになっています。だから守護霊、守護神にいつも思いを向けていればよいのです。


ジタバタすることは溺れている人を救おうとしている救命士の妨げになってしまいます。だから上の五か条の実践は守護の神霊があなたを救い易くするためのものなのです。

守護霊!、守護神!がちょっと長くて言いにくければ、五井先生が仰せのように「神さま!」で良いのです。なんにせよ守護の神霊へ思いを向け、そこに思いを入れるのです。

 

五井先生は先の講話の最後に「ですから、今置かれた職業に使命観をもって、真剣に取り組んでゆくことが大事なのです。不平不満の想いはすべて消えてゆく姿として平和の祈りの中に入れきっていたら、あなたを日常茶飯事の中でも守りつづけているあなたの守護の神霊が、必ず祈りに応えてうまくやってくれるにきまっているのであります。」とお述べですが、先生のおっしゃる通り、すべてを守護の神霊にお任せし、先ずは目の前の仕事に真摯に取り組めば良いのです。

 

なお、上の五か条の最後「朝起きたら祈り、夜寝る前に、少し時間をかけて祈る」とおなじことを天風師もおっしゃっていました。特に寝がけの心をきれいなものすることの重要性を天風師は強調されていましたが、ここで五井先生がおっしゃっていることも同じです。その際の助けになりそうな短い五井先生のお浄めの統一音源がありますので、以下に貼り付けておきます。

 

 

ここにある五井先生の柏手、霊笛(口笛)を聞きながら、寝床に入る前の数分のお祈りをしてみてください。こうして世界平和の祈りと守護の神霊への感謝を行えば、その効果は一層大きなものになるでしょう。その際の姿勢などは以下をご覧ください。

 

 

さて、「凡夫易行実践五か条」が紹介されていた高橋さんのご著作「神の満ちる星の話」は、一連のシリーズの三作目で、これに先立って以下の二冊が2016~2017年に刊行されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

これらもたいへん勉強になりますので、ご興味をお持ちの方はこの二冊もぜひお読みください。

 

なお、私の手元にある「神のみ実在する」の裏表紙には高橋さん自筆の「神一元」と署名が書かれてありました。

 

 

この本にこの「一筆」があることは不覚にも先日まで知りませんでした。高橋さんにはお目にかかったことがありますし、何かの機会にお葉書も頂戴したこともありますので、そのご縁でしょうか。高橋さんに続きたい私にはありがたい限りです。

 

その高橋さんには「如是我聞」という五井先生が折々におっしゃったことを記録し、それをまとめた名著がおありです。この本は五井先生のご名言の宝庫で、いつでも、どこからでも読んでも常に啓発されるご本です。よって、五井先生のことを学びたい方で、お持ちでない方には一冊、手元に置かれることをお薦めするものです。

 

 


最後に「神の満ちる星の話」に書かれた高橋さんの「あとがき」を紹介します。ここにあることは、高橋さんのそれとはくらぶべくもないですが、私の思いでもあるからです。以下転載です。

 

あとがき
師匠の生涯、そしてその教えについて書くことは、弟子の使命であると言われている。
「五井せんせい わが師と歩み来たりし道」 「神のみ実在する 五井先生かく説き給う」とつづき、三作目「神の満ちる星の話」を刊行して、私の使命の一部分を果たしたと思っている。

三冊を書き終って感じることは、五井先生は衆生の救い、という立場を終生崩さず、これのみに専念し行じ、その道に挺身された方、ということである。特別に優れた人のため、人類のリーダーのために真理を説いたのではなく、あくまでこの世に生を受けたすべての者の救いのために、終始説きつづけられた、ということである。


大衆は飽きっぽく、そして難しく面倒なやり方は好まず、安易な生き方を選ぶ。こらえ性がなく忍耐力がない。すぐかんたんに自分たちの望みを叶えたいと思っている。だからなかなか希望が叶えられないと、まだか、まだかと催促し、すぐ脇見をする。
だから五井先生は浄土門的易行道という行じ方をとった。「消えてゆく姿で世界平和の祈り」と言って、飽きっぽく焦りやすい想いを祈りに転換し、祈りの大光明の中に投げ入れる方法をとった。

 

私などは凡夫の最たる者であるから、その方法によってやっと安心立命し、世界平和の祈りに含まれている往相と還相の使命を祈ることによって自然と行じ、喜びと生きる価値を与えられた。
愛は忍耐なり――、一言で言えば、これが五井先生の導き方であった。その愛によって、忍謝によって、私たち一人一人は育てられているのである。 

(転載おわり)

 

先の「如是我聞」とは「是(かく)の如く、我聞きき」と読み、お経の冒頭にある一句です。筆者の高橋さんは文字通り釈迦の教えを直接聞き、それを忠実に記録した「多聞第一」の弟子、阿難(アーナンダ)のような方でした。高橋さんは残念ながら先般ご逝去されましたが、今は大好きな五井先生の御許でご活躍のことと思います。

 

以上、今日のこの記事が読者のお役に立つものであることを願うものです。

 

世界人類が平和でありますように