このコーナーは、私が東海道五十三次を
京都から江戸(東京)に向かって、
ちびちびと歩いている記録を、
文と写真でつづっています。
まずは「(徒歩で)日本橋に到達する」を
目標に掲げて、頑張っています!
私の東海道旅は「広重の浮世絵作品」を
キーワードとしています。
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これまでの旅の記録は、メニューあるいは
こちらの目次 をごらんください!
三
ちょっといい和・東海道編です!
今回は、愛知県の宮(みや)宿を散策します。
〜
宮宿は・・・
江戸から数えて41番目の宿場町です。
天保14年(1843年)の記録では、本陣2軒、脇本陣1軒、
旅籠(はたご)248軒。
人口は約1万3百人が暮らしていた、東海道で最大の宿場町でした。
七里の渡しの渡船場として、また、
美濃(みの)路、佐多街道の分岐点ということもあり、
街道を行きかう人々でにぎわっていたようです。
しかし、現在では当時の面影はほとんどありません
そのため今回は、普通の観光になっています。
宮を描いた歌川広重の作品の1つ
「東海道五十三次の内宮・熱田神事」
(著作権フリー素材使用)
その年の豊作などを占ったそうです。
三 三
今回の移動ルートを確認しましょう!
< おおまかな流れ >
1. JR熱田(あつた)駅
2. 熱田神宮
3. 林桐葉(はやしとうよう)宅跡
4. 姥堂(うばどう)・裁断橋跡
5. 東海道道標
6. ほうろく地蔵
7. 赤本陣跡
8. 宮の渡し公園
では、本編をどうぞ
日時:3月22日(金) 天気:
今回の出発地点はコチラ
JR熱田駅です。
ただいまの時刻は9時10分。
それでは、行きましょう!
駅から熱田神宮の方を向くと
道路の先の緑色の所は、もう熱田神宮です。
では、出発しま~す!
JRと名鉄の線路を左に見ながら、神宮の入口を目指します。
~
日差しがやわらかい朝日を浴びながら、
歩く事、数分・・・
熱田神宮の東門に到着。
時刻は9時18分、出発からの距離:700m。
の鳥居をくぐり中へ
平日の朝9時だと、まだ人が少ないな~
などと思いながら、軽く森林浴。
そして少し先に、誘惑が・・・
「金しゃちきしめん」x2、「宮きしめん」x2があらわれた!
「どうする?」
「にげる」
「まうぴこはその場からにげた」三3
の所で右に折れて、さらに進むと
次の鳥居が見えました。
この鳥居をくぐって左にある手水舎で、手と口を清めました。
そして、その手水舎のすぐ先に、どでかい大木が!
大楠(おおくす)と言われ、樹齢は約千年とも。
弘法大師(こうぼうだいし)が植えられたと、伝えられています。
境内には楠が多く、中でも大きな木が7本あり、
「七本楠」と言われています。
奥に進むと、道の脇に案内板が
熱田神宮や周辺の歴史の勉強が出来ますね。
そして、また鳥居が
この鳥居をくぐると、
お守りなどがある授与所(左)と神楽殿(右)
少し左の奥には、本宮が見えました。
お参りした後、お守りを購入しました。
白鳥守、仕事守、身体守です。
仕事守を自分用に、あとは家族用。
次の目的地に向かうべく、行きに通った東門とは
違う門へ足を進めます。
途中、こんな人に遭遇
「眼鏡之碑」だそうです。
昔、中学とかの社会の資料集に載っていたのを見て以来
久しぶりに見ると、なかなかカワイらしいデザインですね。
最初に思っていたよりも、見どころが多く、
また、木が多いので長い時間いると、森林浴をしているようで、
日頃のストレスが軽減されました。
正門である南門から出て、次の目的地へ。
東海道五十三次のガイドブックなどを見ると、
熱田神宮のすぐ近く(南側)に記載されていたのが
林桐葉(はやしとうよう)宅跡です。
到着は9時49分。
林桐葉という方は、松尾芭蕉の門下の一人。
芭蕉がこの地を訪れた際に、林の家を
定宿(いつも泊まる宿屋)にしていたそうです。
案内板のみ。
出発からの距離は、約2.3kmです。
さらに南側の国道1号線を東に歩くと、
地下鉄の伝馬町(てんまちょう)駅の出入口がありました。
信号で、道路の南側に渡り、少し進むと
旧東海道に合流します。
よく見ると、街頭に「旧東海道」と書かれています。
この道を、しばらく歩いていきますと・・
ちょっと変わった雰囲気の建物が。
この建物は「姥堂(うばどう)」といい、その前に
「都々逸(どどいつ)発祥の地碑」と
「裁断橋跡地碑」がありました。
9時58分到着、出発からの距離は約2.9km。
大正時代まで熱田区内には精進川があり、
東海道には裁断橋がかけられていました。
川でおぼれた死者の服を盗む奪衣婆(だつえば)が
いましたが、たたりで死んだのだとか。
のちに、さまよう老婆の霊を供養し、縁者が
奪衣婆の像を姥堂に安置したそうです。
「都々逸」とは、
江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年-1852年)によって大成された、
<Wikipediaより引用>
とあります。
私は「都々逸」という名前を今回初めて聞きましたが、
その発祥の地だそうです。
裁断橋は・・・
豊臣秀吉の小田原の戦いに行った堀尾金助という若者が、
病気で命を落としてしまいました。
裁断橋まで見送りに行った母親は、翌年、供養のために
橋を架け替えました。また、33回忌の際にも橋を架け替え、
橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)には、子を思う母の思いが
刻まれています。
これから進む方向を見ると
名鉄常滑(とこなめ)線の線路と列車が。
この線路の手前で右に折れ、前に通った
地下鉄伝馬町の近くに戻ります。
少し先に横断歩道があるようでしたが、
私はの陸橋を渡りました。
そして、少し歩いて・・・
風雨にさらされて老朽化していますが、
東海道道標を見つけました。
到着は10時10分、出発からの距離は3.6kmです。
そして、この道標から道路を挟んですぐの所に
ほうろく地蔵がありました。
到着時刻は、東海道道標と同じ10時10分。
ほうろく地蔵を拝んだ後、近くの伏見通を渡り、
次に向かったのは・・
赤(あか)本陣跡。
10時17分到着、出発からの距離は3.9km。
こちらも残念ながら、案内板のみ。
おまけに、写真のように高いところに
掲示されており、目を細くして注意深く
探さないと、見つけにくいです。
そして、文字が見えにくい・・・
案内板によると、
「宮宿には本陣が2軒あり、赤本陣と白本陣と呼んで
区別していた」
とあります。
再び伏見通にもどり
さらに南を目指します。
もうゴールは目の前・・・
赤本陣跡から歩くこと約8分。