シロナガスクジラのブログ -3ページ目

シロナガスクジラのブログ

恋愛、映画、音楽、書籍などの話題を取り上げます。

『ラストタンゴ・イン・パリ』に出演したマリア・シュナイダーは、アナルセックスのシーンについて何も知らされていなかった。脚本にはなかったし、事前の打ち合わせもなかった。撮影でいきなり尻の割れ目にバターを塗られ、マーロン・ブランドに下半身を押し付けられる。屈辱と怒りを感じたマリアは、ベルトルッチ監督を生涯憎み続けた。

 

相手役のブランドも苦しんだ。役になりきって感情をさらけ出し、妻の死に涙し、怒りのシーンでは、本気でドアに拳をたたきつけた。監督には本番行為まで要求されたが、それは拒否した。自伝の中にも出演時の苦痛が綴られている。

 

『ラストタンゴ・イン・パリ』は自分自身の内面との葛藤の連続だったので、撮影が終了すると、私は映画一本のために、二度と自分の精神を追い詰めるものかと誓った。内面の奥の奥まで踏みこんでしまった気がして、そんな苦悩はもうごめんだと思ったのだ。前にも書いたが、苦しみを演じるには、実際に苦しみを「体験」しなければならない。苦しんでいるふりなど、できはしないのである(『母が教えてくれた歌』マーロン・ブランド/ロバート・リンゼイ著 角川書店1995年)。

 

ベルトルッチ監督の次作『1900年』に出演した女優のドミニク・サンダは、レイプシーンで本当に犯されたように感じ、撮影後もしばらく泣き続けたという。『ラストエンペラー』に出演した坂本龍一も、「あの場では、僕はミュージシャンだとか、僕はこういうタイプの俳優だということは許されないような、ベルトルッチの絶対君主制の独裁政治が敷かれていて、その力は圧倒的だったんです」(『WAVE』特集★ベルトルッチ1988年)と語っている。

 

マリア・シュナイダーとマーロン・ブランドは、その後も定期的に手紙のやり取りをしていたそうだ。何週間もの撮影と苦痛を共にした経験が、生涯にわたる二人の絆を作ったのである。

 

 

*ネタバレ注意

 

ベルナルド・ベルトルッチ監督は、映画『ラストタンゴ・イン・パリ』で「自分の正体を隠したままで、二人の人間が関係を持つことができるのか。やがて互いの正体が割れ、外部の世界が彼らの世界に侵入してきた後でも、同じように関係を保つことができるのか。その点を追求したかった」(『母が教えてくれた歌』マーロン・ブランド/ロバート・リンゼイ著 角川書店1995年)と述べたそうだが、その言葉に反して、映画では男の正体を知る前に、女は関係の終わりを自覚している。

 

主人公の女(マリア・シュナイダー)にはフィアンセがいたが、偶然にも空室のアパルトマンで出会ったアメリカ出身の中年男(マーロン・ブランド)と関係し、引き寄せられるようにその部屋を訪れ始める。男に名前や素性を明かすことを禁じられ、二人は動物的に、時には暴力的に交わり、子供のように戯れる。カビ臭い部屋は、実家での少女時代を思い出させる場所でもあった。

 

外の世界では、フィアンセが女を主人公にした映画の撮影を始める。女は何度か拒否したものの、結局は受け入れて自分の役を演じる。それはアパルトマンでの振る舞いとは対照的だった。

 

一方の男は、安宿を経営する妻に自殺されたばかりで、悲しみに暮れていた。知り尽くしたと思っていた妻のことさえ、実は何もわかっていなかった。血まみれだった家にはいたくないのだろう、アパルトマンを借りて、正体の知れぬ若い女との関係を続けた。

 

妻の自殺の理由も謎だった。葬式のために訪れた母親にも理解できなかった。男は妻の愛人だった宿の住人を訪ねて話をし、妻が愛人に自分と同じガウンを着せ、同じバーボンを飲ませていたことにショックを受ける。妻には夫や愛人の個性など関係なかった。ただ自分の価値観を押し付けていただけだった。

 

男は突然、アパルトマンを引き払う。家具のない空き部屋にやって来た女は驚いて泣き、二人で住む部屋を見つけたから見に来て、とフィアンセに電話する。やって来たフィアンセは、女と子供のように戯れるが、急に真顔になり、「もう子供みたいに遊べない。(僕らは)大人だ」と告げる。「大人は物静かだ。マジメで論理的、計画的で冷静、あらゆる問題を抱えている。このアパルトマンは僕らに向かない。この部屋はカビ臭くてヘドが出る」と言って、別の部屋を探しに出ていく。一人残った女は、戸締りをしてアパルトマンを後にする。子供をやめて大人を演じる時が来たのだ。そして中年男との関係が完全に終わったことを自覚する。

 

部屋から出る女を男は待ち伏せしていた。めかしこんだ男の顔を見るなり、女は「終わりよ」と告げるが、一緒に暮らしたくなった男は、自分の素性を明かし、女を説得しようとカフェに連れ込む。けれども、安宿を経営する流れ者の中年アメリカ人など、若い女にとって軽蔑の対象でしかない。

 

カフェはタンゴのコンテスト会場となっていた。男は女をダンスに誘い、おんぶしてフロアに出ると、女は笑顔になる。無表情で踊っていた10組の男女の間に入り、女は男と楽しそうに踊るが、主催者に追い出されて再びテーブルに着くと、「終わりよ。もう二度と会わない」と言って店から出ていく。走って逃げる女と後を追う男。すでに関係の終わりを自覚した女にとって、しつこく付きまとう男は、もはやストーカーでしかなかった。そして……。

 

 

人間のセックスは独自の進化を遂げたようである。しかし浮気をする点は、人間も他の動物と同じままだ。発情期があってオーガズムがなければ、ただの生殖行為だったのに、なんでこんなに複雑になったのだろうか。

 

『セックスしたがる男、愛を求める女』(アラン・ピーズ+バーバラ・ピーズ著 藤井留美訳 主婦の友社2010年)には、次のような指摘がある。

 

オーガズムがあるのは人間の女だけ。ほかの動物の交尾は7~10秒程度で、純粋に生殖のためだけの行為だ。(中略)オーガズム時の膣内をカメラで調べると、絶頂に達すると膣の筋肉が奥にしぼりあげるように収縮し、子宮頸が下におりて子宮口が開く、掃除機のように、男性から発射された精子を吸い上げようとするのだ。それを考えると、妊娠するためには男と女が同時にイクことが重要になる。

 

しかしながら、多くの女性はセックスでオーガズムが得られない。もちろん男性にも問題があるのだが、鹿島茂氏はこう語っている。

 

オナニー未経験の人(女性)にいきなり快楽を、オーガズムを与えようとするのは、かなりのセックス巧者でも大変です。なぜかというと、私が散々考えたあげくに出した結論によれば、男は勝手に女の体を使ってオナニーをしているけれども、女にとってのセックスも、実は同じなんですね。つまり、男の体を使ってオナニーをしているんですよ(『セックスレス亡国論』鹿島茂著 聞き手・斎藤珠理 朝日新聞出版2009年)。

 

なんだか学生時代に習った「結婚とは性器の相互使用である」、という哲学者カントの言葉を思わせるが、鹿島氏はさらにこう続ける。

 

実は、女の人も、動かなくてはならないんですよ。自分の方から快楽を得るポイント、動きを体得しない限り、駄目なんです。男がどれほどテクニシャンでも、女の方が動かなければダメ。女の人がベテランになればなるほど、快楽のポイントを得られるようになるというのはそのためなんです。繰り返していれば、そのうち、腰の動きなどで、快楽を得るコツがわかりますからね。(中略)欧米映画のセックスシーンがあったら見てください。必ず女性が上、騎乗位で頑張っていますから(『セックスレス亡国論』)。

 

今ぱっと思いつくのは『ブリキの太鼓』だけだが、確かにヨーロッパ映画などでは騎乗位のシーンが多かった気がする。『チャタレイ夫人の恋人』でも、愛人が先にイッてしまったので、主人公のコニーがそのまま腰を動かして、後から悦びを得る様子が描かれている。

『話を聞かない男、地図が読めない女』で有名なアラン&バーバラ・ピーズ夫妻の著書は、セックスを求めるのが夫で、拒否するのは妻だという昔ながらの論調で書かれている。もちろん人にもよるが、女性の性欲は年齢と共に徐々に高まり、やがて男性と同等かそれ以上に強くなるように思う。セックスレスに関しても、性風俗が充実している夫側より、妻の不満の方が多い気がする。

 

『セックスレス亡国論』(鹿島茂著 聞き手・斎藤珠理 朝日新聞出版2009年)には、日本の消費社会がひたすら便利さを追求した結果、面倒くさいことを嫌う独身男性が、セックスをやめて、オナニーで済ますようになったと書かれている。

 

恋愛してセックスするには、金も時間も労力もかかるのに、それが得られるという保障はない。これほどコスパやタイパの悪い行為はないだろう。だったら金を払えば確実にできる性風俗や、ネットでポルノを見てオナニーする方がいいという訳だ。

 

では、昔の夫婦はせっせとセックスしていたのだろうか。ヨーロッパではかつて、上流階級の結婚はあくまで子孫を残すための制度であり、持参金があれば妻は自由に恋愛できたそうだ。

 

『チャタレイ夫人の恋人』でも、妻のコニーが夫の知人と自分の屋敷内でセックスする場面が描かれているが、鹿島茂氏も次のように指摘している。

 

人妻は、先ほども述べたように持参金があれば、夫に気兼ねなく、経済的にも自由に恋愛ができるのです。(中略)それは、王侯貴族たちが住んでいた屋敷の構造からも説明できます。屋敷はだいたいコの字形をしています。片側がムッシューの棟、反対側がマダムの棟。夫婦は別々に寝るのです。食事をとるところが真ん中です。朝起きて、真ん中の棟に来て、「おはよう」と挨拶して、一緒にごはんを食べて事務連絡を済ませたら、後は何をしようと自由でした。それぞれの棟には入口のほかに、秘密の階段がそれぞれあって出入り自由です。大貴族の女性には必ず「訪問の時間」というものがあり、美しい夫人だと、朝から男が次々と訪問してくるのです。(中略)子づくりのためのセックスをしたら、あとは(夫と)セックスする必要はないからです。

 

日本にも若い男が夜這いするという習慣があった。それは好きな女子というよりも、未亡人や人妻が主な相手だったようだ。炭鉱夫の妻の中には、夫が坑内に入っている間に他の男と関係する者もいたらしい。一夫一婦制だけでは処理できない性の問題も、かつては解決する手段がいろいろあったようである。

日本性機能学会は、2024年に勃起障害(ED)に関する調査を実施し、日本人男性6228人の回答を分析した結果、20~79歳のEDの割合は平均31パーセントであると発表した。

 

男性が性能力の衰えを感じた時、男としての自信を失う。プライドが邪魔をして妻には相談できない。『不倫の心理学』(アンジェラ・アオラ著 安達七佳訳・新潮社2024年)には、セックスを求める妻を「お前は完全に病気だ。異常だ」と罵倒する酷い夫が出てくるが、もしかすると彼も勃起力に自信をなくしていたのかもしれない。

 

一方、『セックスレスの精神医学』(阿部輝夫著・筑摩書房2004年)によると、セックスが嫌でしょうがないという性嫌悪症の夫たちは、妻とはダメだが、他の女性には欲情するという。これは一定期間一緒に暮らすと、パートナーに発情しなくなるという動物行動学の研究成果とも一致する。

 

阿部輝夫氏のクリニックでは、こうした性欲障害の治療も行なっていた。ここを訪れる男性の多くは、妻にうながされて来院する。阿部氏によると解決の鍵は妻にあり、夫に対して依存的で、症状に対して同調的な妻だと、回復するケースが多いが、夫に対して支配的で甘えさせない妻だと、ほぼ離婚したそうだ。著書には具体的な治療法も紹介されているので、参考になるかもしれない。

 

夫の浮気が発覚したとき、多くの妻は、自分とはセックスしないのに他の女としていることにショックを受ける。けれども動物行動学その他の研究からすると、妻だからできないのである。そこに貞操が絶対視される一夫一婦制の悲劇がある。

 

どちらもしたくないのなら問題はない。しかし、気持ちのいいセックスが生きている実感を得られる行為だとしたら、それなしでは生活が虚しいという思いもよくわかる。