長野県伊那市の高遠城へ。



遠州から信濃、諏訪、甲斐への抑えの城として機能していた。藤沢川と三峰川に囲われた平山城である。城の後背は三峰川が削り取った切岸となり、天然の要害である。





大手門石垣が残り、大手門は移築され、三の丸にあった高遠高校の正門として昭和59年まで使用されていた。高遠城は江戸以降、藩校としての歴史があり、そのまま高校へと教育の場として役割を担ってたのだろう。
400年近い歴史ある門を潜ってた高校生が羨ましい...いや、高校生なら「ボロいわ、ダサいわ」言うてたかもしれん。昭和59年、ガンダムや漫才ブームが一段落し、ファミコンのスパルタンXやキン肉マンタッグトーナメントで世の中の中高生は熱くなってたかもしれないし、大瀧詠一/佐野元春/杉真理のナイアガラトライアングルが音楽的にはニューミュージックが流行っていた時期だ。翌年60年に阪神の優勝、そんな時代である。
そんな時代に木造の校門は伊那市の高校生には受けなかっただろう。世はスクールウォーズブーム、櫓門よりラグビーボールである。

高遠城を信玄による信濃平定の際、諏訪氏、小笠原氏を打ち破り、高遠城も落城。以降、武田家が入り、山本勘助による大改造が行われ「後ろ堅固」な山城に変貌。本丸をグルっと囲った堀に引橋でいざとなった時に侵入を許さない、籠城出来るような作りである。


わかりづらいが10mの深さがあり、当時は水堀だったようである。
二の丸の外側に空堀が走り、外堀の役割を担っている。⬇

本丸と二の丸を繋ぐ問屋門。城下にあった門をここに移築した、城の遺構とは無関係である。
色々と間違ったことをされてるので、いつか歴史に則った縄張り復元を願いたいものである。

反対の本丸側から見ると古地図が示すような大きな枡形虎口に高麗門があったのではあったのではなかろうか。


時を知らせていた太鼓櫓、本来ここには無く搦手にあったが、明治に本丸に移築。
なんと、ここの太鼓で先程の高遠高校のチャイム代わりに使用してたとか。まさに男塾の世界である、詰襟学ラン。日本刀忍ばせてる塾生が1人くらい居たかもしれない、居ないか!



南曲輪と法憧院曲輪の橋の角の石垣。門があったと思われる。
高遠城の戦いでは織田軍滝川一益らがこちらから攻めたとのこと。

高遠城は武田信玄の父、信虎が晩年に信玄亡き後に高遠城で余生を過ごし、ここより甲斐に入ることは許されず、そのまま1574年に80歳で大往生を遂げた。その8年後、1582年に織田方による甲州征伐が始まり、先陣の織田信忠が3万、一方高遠城を守る信玄の5男である仁科盛信らがわずか3000(信長公記)。信忠は地元の僧に降伏と開城を求めるが、盛信はこの僧の耳を削ぎ落とし、追い返す。だが多勢に無勢、3000の兵は散り、盛信も自刃し、内臓を壁に投げつけ壮絶な最期となった。

ここは桜の名所で、秋も紅葉が美しい今でも伊那市民に愛される場所である。
春、桜が咲き乱れる季節にまた訪城したいものである。

武田晴信(信玄)の伊那侵攻は



織田軍の甲州征伐、高遠城の戦いは
ユキムラチャンネルの「甲州征伐」の開始30分ほどから


参考にしてくだされ。