荒俣宏『風水先生「四門の謎」を解く』

世界文化社

 

 

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始まりは、

小笠原諸島の父島である。

荒俣宏氏はそこで奇妙な碑文をもつ石碑を見たそうな。

 

 

 

 

開拓小笠原島之碑。

大久保利通が明治天皇に代わってしたためた小笠原開拓記念の石碑だが、

その碑文の写しがある。

 

 

 

 

碑文訳

明治の中興、諸政を革新し、大いに辺境を開拓した。

明治6年(1873)、岩倉具視が小笠原の開拓を決議した。

内務卿大久保利通は外務・大蔵・海軍卿と協議し、

方針をたて、それが認められた。

そこで、外務省田辺太一を派遣し、視察させた。

戻ってから、現状を天皇に報告した。

明治9年(1876)、内務小花作助に命じ、

現地人に農、林、漁、牧畜をさせ、島を統治させた。

はじめは1593年(文禄2年)小笠原貞頼が発見し、

木標を建て、わが国の領地と表した。

よって、小笠原島と名づけられた。

延宝3年(1675)幕府は島谷(嶋谷)市左衛門を派遣し、巡視させた。

享保12年(1727)貞頼の曾孫の貞任が、先祖の遺志を継ぐべく、

願い出て航海したが、漂流して帰らなかった。

そのうち、日本人も少し移住し、外人もまた移住者が出てきた。

文久元年(1861)水野忠徳を派遣し、住民を説き、法令を頒布し、

新ばりの碑を建て、経緯を記した。

しかし当時、日本は多事ゆえ、経営をうまくできなかった。

それで、今日の開拓を待つこととなった。

日本は四方を海に囲まれ、伊豆から南東方向、

北緯25-6度より、35-6度に至るまで島が連なっている。

小笠原もその1つである。

甲斐から伊豆への山脈が延々とここに(まで)伸びている。

すなわちここは日本の南門である。

役人をおいて行政が機能しないと、住民は安心して暮らせない。

ああ、住民が安心して働き暮らし、役人がその職務を勤めることは、

政府が辺境を開拓するという天皇の意向に沿うものである。

 

大久保利通 撰文ならびに篆額  日下部東作 書 

紀元2537年(明治10年11月・1877)廣群寉 刻

 

 

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荒俣氏が

衝撃を受けたのは──

すなわちここは日本の南門である。

という一文である。

南門!

荒俣氏は興奮した。

南門があるのなら、北門、東門、西門もなければならない。

風水では「四門」そろって、その土地を外敵や邪氣から守ることが出来る。

もし──

天皇家と歴代の政権が「四門」を重要な「国土防衛システム」として利用していたとしたらそれは一体どこにあるというのか?

この発想から、荒俣氏の「日本の四門」を探す旅はスタートした。

 

 

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ここまで読んで「ん?」と感じた方、いますよね?

小笠原は南門──

なんか変でしょ?

この記事のタイトルは『風水先生「四門の謎」を解く①東門の小笠原』

南門ではなく東門。

どっちが正しいの?と。

荒俣氏によれば、

小笠原は今でこそ南門であるが、かつては「東門」であったという。

正解は、

東門の小笠原

なのである。

今からその経緯をお話しする。

 

 

 

 

小笠原諸島は、

安土桃山時代の武将小笠原貞頼によって1593年7月26日に発見された。

その小笠原貞頼を祀ったのが小笠原神社。

父島の扇浦地区に鎮座する通称「貞頼神社」である。

この貞頼神社の正面にあるのが宮之浜。

日本人が小笠原諸島に初上陸した地点である。

1593年7月26日、小笠原貞頼がここに第一歩を印した時点で、

小笠原と京を結ぶ風水ライン

が引かれたのである。

 

 

 

 

あくまでも「四門」の中心となるのは、

天皇のいる京都である。

江戸時代、小笠原諸島は京都の内裏から見て「東四度」の直線ライン上にある聖地とされていた。つまり小笠原諸島というのは、京都から「東四度」に向かってまっすぐに引いた天皇ライン上の島だったのだ。

小笠原諸島は、天皇のいる内裏から見て、東にある。

ゆえに、

小笠原は東門

なのである。

 

 

 

 

 

ここで余談。

貞頼神社の社殿のほぼ真後ろに、

隠れるようにして「貞頼先神の碑」がある。

荒俣氏はこの碑文を目にした。

大正7年に彫られた碑文であるが、その内容は妙である。

( 読みにくいのでカタカナは平仮名に直した )

貞頼様より先の

此地の先祖である

むえんであるくようをして

其後

新神ハヤムシャ様

貞頼様よりかたをくらべて上年(手?)神になりました

大正7年月15日   

この碑文の謎解きを10年以上もした人がいた。

ところが唯一わかったのは「新神ハヤムシャ様」の正体だけであった。

 

 

ハヤムシャ様というのは、

伊豆諸島の青ヶ島で信仰されている「テンニハヤムシ様」のことである。

青ヶ島は小笠原諸島と同じように黒潮本流の南側に位置するが、

黒潮本流の北側にある伊豆諸島の島々とは文化の系統が異なるのである。

青ヶ島にはシャーマン制度があり、男女のシャーマンが存在する。

巫女と舎人( ミコとシャニン )である。

彼らは神を降ろし、さまざまな祈祷を行なう。

男の舎人はさらに細分化されて、博士・神主・卜部と呼ばれている。

この男女のシャーマンが神事を司るのだが、各自「オボシナ様」と呼ばれる守り神を持っている。

オボシナ様が巫女に降りて神憑りをし、巫女は様々な託宣を行なう。

この青ヶ島の形態は「沖縄や奄美」のそれと酷似していると言うのだ。

で、ハヤムシャ様であるが、

青ヶ島ではこの神を「ハヤマハチ天狗」と呼ぶ。

早山八天狗──

一説によれば、羽黒修験の「葉山信仰」と関係があり、

八天狗とは「8人の羽黒修験者」ということであるらしい。

沖縄・奄美

東北の修験

小笠原・青ヶ島

結論から言えば、

沖縄の霊的文化が海路によって東北に運ばれ、

さらに太平洋側にある小笠原・青ヶ島へと運ばれたと言うのだ。

 

 

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日本を守る四門。

そのうち東門に当たるのは小笠原である。

小笠原貞頼がこの島に上陸した時から、京都の内裏から見て東に位置する小笠原諸島は日本国天照皇大神宮地となり「東門」と定められたのだ。

ところが、である。

小笠原諸島に「天皇制と神道」を持ち込んだ小笠原貞頼を恐れさせたものがあった。

南方シャーマニズムの抵抗である。

それは「島の精霊の反撃」という形をとった。

一種の霊的戦争が敢行されたと考えられる史実があるのだ。

『小笠原諸島歴史日記』上巻( 辻友衛著 )にこんな記述がある。

 

 

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1671年9月。

大阪の船「富吉丸」が小笠原に漂着し、17人が島で生活をしていた。

彼らが発見されたのは21年後のことで、その間、13人が死亡。

死因は病死である。

1739年。

江戸の船が漂着し、10年間、島で暮らしたのちに救出される。

そのうち3人が自殺。氣になるのは「常に雷鳴轟き、地震あり」という記述。

1826年9月。

イギリスの捕鯨船ウィリアム号船長が父島で生活をしていたが、倒れてきた大樹の下敷きとなり死亡。

1856年。

小笠原に13人の船乗り上陸したが、6人が病死。

この他、小笠原移住者には死亡者が多く、死因は「自殺」が目立つ。

集団自殺や狂死と考えられるケースも多い。

 

 

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これらについて、ある人は言う。

「島の精霊のせいです。人々は狂死したのです。妖怪を見て!」

小笠原にある「ボニナイト」というマグネシウムを多く含む特殊な安山岩は重力異常を呼ぶ。それに加えて雷鳴、群生するグリーンペペと呼ばれる夜行茸、巨大な蝙蝠。

こうしたものが原住民のシャーマニズムと結びついて人を死に誘ったというのだ。

貞頼神社を神格化し、父島を「日本国天照皇大神宮地」とマーキングして、

国際的に「小笠原諸島は日本領」と認めさせたいと願った明治政府であったが……

 

 

 

 

大正7年に

青ヶ島の巫女が建立した「ハヤムシャ様の碑」は、

南方シャーマニズムの思いがけぬ復活を促したものと思われる。

小笠原は沖縄の久高島と同じニライカナイの出入口である。

ニライカナイは南方の海の彼方にある。

にも関わらず、天皇のおわす京都の内裏から見れば「東門」に当たるという矛盾。

貞頼が発見して以来、放置されて来た小笠原諸島を天皇は「開拓せよ」と命を下し、

小笠原に開拓団を送り込んだ。

九重の東四度二十七分当たりて、

広き狭き若干の島有りしを、

文禄の二年と言うに、小笠原貞頼渡り初めしより……

いつしか渡り通事も無くなりにたりしを……

新治( にいばり )せよと掟させ給いて……

東四度二十七分。

そう。京の内裏から見れば、小笠原は東にある。

聖なる島を日本領土とせよ

こうした天皇の勅命が、小笠原を「東門」たらしめたのだ。

しかし明治になり、東門であった小笠原は国防政策上の「南門」へと変化した。