前回の続き。
荒俣宏氏の「四門」の旅。
今回は「南門の沖縄」について書く。
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沖縄へ向かう飛行機の中で、荒俣氏は2冊の本を読んだ。
1つは伊波普猷( いはふゆう )の沖縄学。
もう1つは蝦夷( えみし )を巡るシンポジウム報告。
沖縄と東北。
これらにはある共通点がある。
① 刺青の風習
② 遺伝的特性の近さ
③ 言語
とくに言語。
蝦夷の場合、母音のオ段がウ段に置き換わる。
たとえば能代( のしろ )は渟代( ぬしろ )に。
これは琉球語も同じである。
琉球語にはア・イ・ウの3つの基本母音はあるが、エ・オの短母音はない。
琉球語と東北の発音は「古い日本語」の姿をとどめている。
たとえば夢。
ふつうなら「ゆめ」と発音するが、
沖縄と東北の一部は「いみ」もしくは「いめ」と発音するそうな。
荒俣氏の考察によれば、
琉球開祖のアマミキヨ・シネリキヨは九州から来て、
奄美大島に辿り着き、さらに沖縄まで南下したという。
彼らは「隼人」と同系の人々で、大和朝廷の言葉とは別の言葉を使っていた。
彼らの沖縄移入は7世紀頃。
奈良時代になる前の「古い日本語」を携えて沖縄へ渡ったようだ。
彼らは最初に久高島に上陸。
そこから対岸の知念、玉城へと渡った。
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話はここから面白くなる。
荒俣氏は、斎場御嶽にいた時、地元のおばあからとんでもない話を聞いた。
「この御嶽の奥の森へ行ってみなさい。
1番高い岩の上に御神体の鏡が祀られているから。
今の鏡は2代目でね、前の鏡は、だいぶん以前に本土から皇室の方が見えられて、
どこぞへ持ち運ばれたそうですよ。持ち運ばれた理由は知りませんけどね」
これについては追跡アマミキヨさんがブログに書かれていた。
↑
追跡アマミキヨさんのブログによれば、
御神体の鏡が置かれていたのは、ナーワンダーの御嶽である。
荒俣氏は、おばあの話に興味をそそられた。
天皇がナーワンダーの御嶽に関心を持っていたとは只事はない。
とにかくその鏡を見たいと探し回り、遂に大岩を発見。
切り立った大岩をよじ登ると、その頂上は平場の拝所になっていた。
その向こうに2メートルほどの岩がそそり立ち、鏡はその上に光り輝いていた。
皇室が持ち去ったという鏡の代替品を見た荒俣氏は、
「ほんとうに驚いた!」
「不可思議なスポットだ!」
と、興奮したという。
この話は興味深い。
皇室が
沖縄のナーワンダーの御嶽から
鏡をどこぞへ持ち去った
しかも、ナーワンダーの御嶽の御神体の鏡の背後には「久高島」が位置するのだ。
ここから話は佳境に入る。
では「南門」はどこにあると言うのか。
荒俣氏はこう本に書いている。少し長いが引用する。
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風水師たちは、
それこそ沖縄じゅうを歩き回って、
久高島から神の太陽が昇る光景を拝める、最高のスポットを探し出したに違いない。
それが
浦添城
なのだ。
わたしには確信があった。
浦添城からは必ず久高島が見える。
絶対に見えないから行っても無駄だという運転手を急かして、浦添城跡に向かった。
( 中略 )
見ろ!浦添城の端と思われる崖っぷちから200メートルほど向こうに、
急角度のピラミッドを思わせる大岩が聳え立っていた。
為朝岩だ。
為朝岩の彼方に広い海があった。
見覚えのある斎場御嶽の大岩が、遠くの岬の先端に見えた。
ということは──
慌てて、岬の先の洋上に目を向けた。
あった!
真っ平らな久高島が、信じられぬほど間近に見える。
まさしく南門である。
浦添城から南東方向に、ほぼ一直線。
為朝岩、斎場御嶽、そして久高島が並んでいる。
方向から見て、冬至の太陽が久高島から昇る光景を望むことの出来る地形だった。
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浦添城は
王が天に祈りを捧げた「天壇」である。
浦添城
為朝岩
斎場御嶽
久高島
これらが一直線に並ぶ南東軸を、荒俣氏は「ニライカナイライン」と呼んだ。
そして荒俣氏は結論づける。
間違いなくこの地こそ「南門」である、と。


