自分のあふれ出す感情と欲望によって

ある大切な友人の約束を破ってしまった。


申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


本当にありがとう。ありがとう。

物事全てには理由があると、意味があると古今東西、あらゆる

国や宗教によって同じようなことが語られている。


3月11日以来、私の人生は大きく変わった。

本当に多くの人の人生を変えたあの地震という不幸な出来事に

果たして理由や意味はあるのだろうか?


意味や理由があったとしても、それらはあまりに理不尽な出来事の

上に成り立っている。


こんなにまで理不尽な出来事を経て生きている私たちは

どんな役割を背負っているのだろうか?


まるでスクリーンの向こうで繰り広げられる映画のストーリーの

ようなこの大災害は紛れもない現実だ。


この、のっぴきならぬ現実に対峙して、私たちはどのように振舞えば

いいのだろうか?


誤解を恐れずに言えば、この不幸を経験できた私たちは幸運だともいえる。

(そう思わなければやってられないということも含めて)


これだけの不幸を経験しなければ、私たちは自らの生き方をここまで

深く考えただろうか?


この地震をきっかけに、初めて人生について本気で考えたという人も少なくはないだろう。


この現実をあるがままにとらえて、生きるということを本気で考えよう。

考えて欲しい。


もはやこの短い期間でも記憶から薄れ、過去の遠い話になってしまっている人も

たくさんいると思う。


でももう一度だけ思い出して、人生について深く考えて欲しい。


そんな風に言い聞かせる。

記憶が薄れ、堕落しかけていた自分自身に対しても。

地震をきっかけに書き始めたこのブログ。

自分の想いを見える化し、明確明瞭にすることで、そこから何かを洞察し、

そして学び、人生を変えられるきっかけにしたいと思って書き始めた。


まだまだ書いた文章の数は少ないが、これらの文章を綴ることで

本当に多くの洞察を得たと思う。


しかし、洞察そのものには何ら意味がないことにも気が付いた。

私たちは人生を通して様々な洞察を得て、何かを感じる。

一般的には“気づき”とも呼ばれる。


私たちは何らかの気づきを経験すると、何か新たな境地にたどり着いたかの

ようなさっかくを起こす。


しかし、気づき自体は新たな知識の発見(自分の中から)にしか過ぎず、

ご承知の通り、知識そのものには何ら価値がない。


知識は実践されて初めて価値となるのだから。


つまり上のことを整理すると、今回の震災を通してどんなに多くのことを洞察し、

そこから何らかの気づきを得たとしても、その気づきで得た知識を行動と実践に

よって世の中に表現していかない限りは価値観は真の価値にはならず、

意味は意味とはならない。という考えに至った。


震災を経験した私たち、特に生き残った私たちはそこに何らかの意味を感じている

はずだと思う。しかし、その意味は行動と実践によってのみ意味ある現実となるのだ。


目の前にあるのは、のっぴきならぬ、あるがままの現実である。

その現実にどのように態度し、行動していくかが今の私たちに問われている。


そしてその問いは、自分自身を発見し、あるがままに自分らしく

生きていくことの先にのみ答えがあるのだと思う。


私はこの問いに精いっぱいに答えたい。

それが私にできることの一つなのだと思う。