もはやありふれた話となってしまったかもしれない。


本来ありふれては欲しくないことではあるが、

今回の大震災において、それはいたる所で聞かれる

本当にありふれた話となってしまった。



あるyahooの記事を読んで涙が止まらなくなった。


妻と、生まれて数か月の息子を津波で亡くした男性の話である。



きっとこの文章を読んでいる人たちも、同じような話をいくつも

聞き、読み、もしかしたら経験しているかもしれない。


メディアでは、毎日同じような悲しい経験をした人々の話が取り上げられる。


しかし、私たちは心が麻痺しつつあり、このような話を聞いても

心を痛めなくなってきているのかもしれない。


心を痛めたとしても、その痛みは以前の鮮烈な痛みに比べれば

随分と鈍いものになってしまったのではないだろうか?



私は、前述の記事を見てたくさんの涙を流して気が付いた。


私の心も、例にもれず、いつの間にか鈍化していたのだろう。


精神衛生的に言えば、それはそれで自らの心を守るための

正常な防衛反応と言える。自分の心が傷つき過ぎるのを防ぐために、

ある種の解離のような現象が起きていたのだと思う。


しかし、これでは私は変われないと思った。


地震が起きる直前の私は、

事情はいろいろあったのだが、

ありとあらゆる事柄から逃げていた。

すべてを逃避し、怠惰に毎日を過ごしていた。


そんな時に起きたこの大地震であった。

そして多くの人々の悲しいストーリーを知ることになった。



地震が起きた直後は、一つ一つのストーリーを知るたびに

胸が張り裂けそうになる想いを抱いていた。


それなのにも関わらず、同じような境遇の人々の話を

繰り返し聞くたびに、その意味するところが、私の中で

随分軽いものになりつつあったことに気が付いたのである。


しかし、偶然にも、そのyahooの記事が年齢や被災地域という点から感情移入しやすい

内容であったために、この胸が張り裂ける、辛い感覚を取り戻すことができた。


すべての人がこの辛い感覚を持てというわけではない。


しかし、少なくとも私自身が変わり、より成長していくためには

この感覚を私は忘れてはならないのだと思うのだ。


この痛みから逃げずに、向き合い、自分の情けない生き方を悔やみたい。

悔やんで、悔やんで、悔やんで、そして自分を変えたい。


その『亡くなった人々の分まで生きいる』などという大きなことは私には言えない。


しかし、少なくとも、その亡くなった人々に対して恥ずかしくない生き方は

しなけらばならないと思う。それが、生き残った私たちの責任であり、

役割であるのだと思う。




私も、この震災を通して、会いたくても会えないでいる人が一人いる。


生きていることはわかっているし、もう時期、電話で会話をすることも

できるだろう。


数週間、1ヶ月、数か月以内には再会することもできると思う。


だからこそ次にその人に会えた時は、今まで以上に心の底から大切にしたい。

そう決心している。


今まで私は、過去に自分の弱さが故に大切な人を傷つけてきた。


もうこんな失敗を繰り返してはならない。


だから私はこの痛みを忘れたくない。




私が以前に、人間関係である人を傷つけ、

結果的にその人との人間関係を破局に追いやった時に

大きな反省の念とともに、友人に語った言葉がある。

その言葉を改めて思い出した。



『大切な人を大切に』



こんな当たり前のことすら忘れていた

最近の私が本当に情けない。

私は2011年3月11日に起きた東北関東大震災の

被災者の一人である。


被災者とは言っても、五体満足で、電気の通った暖かい

自宅でこのような文章を打っているのだから、正確には

被災者と呼んでいいのかはわからない。


まだまだ生活は不自由ではあるが、沿岸部に住んでいた

津波の被害に合われた方々に比べれば被災者と呼ぶのは

失礼な気もする。



ライフラインの復旧の遅れ、深刻な燃料不足とそれに伴う

支援物資の不足、予断を許さない原発事故。


いったいこれから日本はどうなってしまうのだろうか?


そんな不安に押しつぶされないように、この文章を綴っている。


そして、不安に押しつぶされないだけではなく、この未曾有の

大災害の経験者として、何かを感じ、自分自身の何かを変え、

少しでも『今後の日本のプラスの要因』になれるように、

決意することも含め、より多くの人々に発信し、共有できるように

ブログと言うツールを利用することにした。



ネガティブに考えようとすれば、いくらでもネガティブに考えられる

この状況。しかし、ネガティブに考えたからと言って何かが変わる

わけではない。

かと言って、ポジティブに考えたからと言って何かが変わるわけでは

ないのかもしれない。


現状は現状であり、世界はいつもあるがままである。


しかし、そのあるがままの世界を、私たち人間がどのように

傍観し、捉え、理解し、どのように意味付けるかによって、

私たちの中での世界の在り方が変わるのだと信じている。


そして、その一人ひとりの中での世界の在り方が、

やがては世界を変える大きな流れになるのだとも信じている。



この文章を読んでいただいている方は、

「この人は何を言っているんだ?頭がくるってしまったのか?」と

思われる方も多々いらっしゃるとは思うが、

私が云わんとしていることは、インドを独立に導いた

マハトマ・ガンジー氏の次の言葉に集約されている。


「世界に変化を望むならば、自らがその変化となれ」



私は無能で、だらしがなく、特別な能力を持った人間ではないが、

自らの中で少しでも良い変化を起こし、その変化をもって

世界に少しでも良い影響与えたいと考えている。



それは所詮『大海の一滴』に過ぎないのかもしれないが、

大海はその一滴によって作られているというのも事実である。



もし、今後このブログを読んでいただける方がいらっしゃるとすれば、

ある一人の男の『決意表明という名の独り言』と思って読んでいただければ

と思う。


余震にひやひやしながら、なんとかここまで綴った文章。

ひとまずここで結びたいと思う。


2011年3月18日 仙台市内の自宅にて