こんにちは侍ままんです。
この記事を読んで、思うこと多々あり。
我が家の長女も、今年ハタチです。
でも、振り袖着てません。
式典にも行ってません。
同窓会にも行ってません。
、、、それが何か??
って感じです。
我が家は、別に貧困世帯ではありません。
でも富裕層でもありません。
ただのド庶民です。
だがしかし、ド庶民のみなさんに聞きたい。
レンタル振り袖のために10万円を払う余裕なんてありますか???
10万円がないわけじゃあない。
でも、その10万円はできる事なら違うことに使いたい
別に振り袖なんか着なくていいよ。
そう思ってしまう。
そもそも、振り袖を着てハタチを祝う慣習なんて、いつから始まったものなんでしょうか?
いかにも「古き良き日本の伝統文化」みたいに謳われていますが、近代になって、呉服屋が気まぐれで始めたキャンペーンなんじゃないかと、個人的には疑っています。
だって振り袖姿なんてのは、お見合い文化があったころ、お見合い写真を撮るために必要だっただけで、今となっては無用の長物。
そしてお見合い写真が必要だったのは、どっかのお金持ちのご令嬢。すなわち、ハタチに振り袖を着て着飾る文化とは、ただの金持ちの道楽だったってことなんじゃないの?
それをいつの頃からか
【ド庶民も着てみむとてするなり】
大してお金もない庶民が見栄を張って、呉服屋に踊らされているように思えてなりません。
私は子どものころから『質素』を絵に描いたような家で育ちました。
父は野人のような人で、質素な家にすらほどんど上がらず、1日の大半を庭で過ごしているような「ガチアウトドアライフ」な人物でした。
当然お金に興味はなく、給料は食える分だけあれば十分という考えだったのではないでしょうか。
よって、私は物心ついた時から「うちにはお金がない」と心の底から信じていたし、親もそう言っていました。
そんな家庭ですから「海外旅行に行ってみたい」なんてひと言言おうものなら、「お大臣じゃあるまいし」とか「天皇陛下じゃあるまいし」など、様々なバリエーションの「あるまいし」理論で一蹴されるのが常でした。
そういう生い立ちゆえ、私は子どもながらに「世の中には金持ちと貧乏人がいて、貧乏人は金持ちのようには生きられないんだ」という世の習わしを、深く心に刻むことになったのです。
ですから、いまだに『金持ちがやること』に、わざわざ食い込もうとする庶民の気持ちが理解できません。
金がないんだったら、やんなきゃいいじゃん。
「みんながやってるから。」
とかは、全く思いません。
だって今までの人生で、自分が「みんな」に属していた試しはほとんどありませんから。
やってる人はいるけれども、やってない人もいる。
それが真実。
お陰様で「やってる方に入らなければ!!」という強迫観念を持ち合わせておりませんので、自由に生きれていると自負しております。
話を戻すと、振り袖なんか着たけりゃ着ればいい。でも、着たから何なんだよって考えたときに、10万円が惜しいのであれば着なくても良いと思うの。
それで着なかったからって、劣等感を持ったり、卑屈になる必要がどこにあるってんだ。
むしろ、
いつまで親の金で生きていくつもりなんだよ!!チャラチャラしやがって!!
そう思っても良いくらいだよ。
こういうことを言うと、娘たちに「だからお母さんには、友だちがいないんだよ」とか言われます。
いいじゃん別に。
友だちはいるよ。
長女は中3の2学期に、東京に引っ越してきました。中3のクラスをベースに開催されるという同窓会。
「どうせ行っても誰も覚えてないし、、、」
「窮屈な振り袖を着て出かけるなんて、考えたくもない」(夏に振り袖を着て、写真館で前撮り済み。それで十分だそうです。)
以上の理由から、成人の式典に出る代わりに、次女と一緒に韓国へ旅行に行っていました。
それも良い思い出です。
世の中に『やらなきゃいけない』ことなんてないんです。やるかどうかは自分で決めたら良い。
振り袖が着たければ、写真館で写真だけ残せば良いと思います。5万円も出せば衣装のレンタル、着付けやお化粧、ヘアメイクまでしてくれて、立派なアルバムが出来ますよ。
ちなみに私自身は、母親の実家が美容室だったので、振り袖をタダで着付けてもらって、庭で写真だけ撮りました。式典には行ってません。
ようは、出来るんならやればいい。
でも無理してやるこたあない。
その昔には『1億総中流社会』なんて言葉があって、中流以下は「みじめ」みたいな価値観が生まれました。
でも本当はいつの時代にも、中流以下はたくさんいるんです。生活レベルは人それぞれ。
「よそはよそ。うちはうち。」
みなさん、そう言われて育ちませんでしたか?
今だってそうやって育てれば良いと思います。
〈同じ〉じゃなきゃ〈みじめ〉なんてことはないと思うんです。
できる範囲で人生は十分楽しい。
私はそう思います。