幼い子どもを残して
先立たれる方を知ると
本当に心が痛みます。



ままんも子どもを持って
初めて抱いた感情をいまでも
はっきりと覚えています。

《死ねなくなった》

目の前にはたった1日だって
自分がいなくなったら生きていけないで
あろう生き物がいるわけです。
死ねないのはもちろんのこと
交通死亡事故を起こして懲役刑とかも
許されないのかと思うと
車のハンドルを握ることさえも
ストレスに感じることがありました。



それはもう《恐れ》。
いやだ、とかいうレベルではないの。
《子どもの前からいなくなる》という
恐怖に押しつぶされそうになる



子どもが生まれる前だって
《命あるものいつかは滅びる》とか
《生まれた瞬間から我々は死に向かって
生きている》とか哲学的な言葉によって
死というものはいつもその辺に
あったはずでした。
そして誰しも《いつか》は必ず死ぬ
ということも十分に理解して生きていると
思っていました。


でも子どもを持ったその時から
その《いつか》来るはずのものが
《いま》来たら駄目なものへと変わって
行くのです。
《いつ来ても良い》はずだったものが
《いま来たら駄目》なものへ変わる。
当たり前にあると思われていたものが
招かれざる客へと変貌していく。
死に対する憎悪、恐怖。
愛する何かを手に入れるということは
対極にある何かを
憎い存在に変えることなのかも
知れません。



そういう思いを知っているから。
尚更、幼い子どもを残していかねば
ならなかった母親のことを考えると
いたたまれない気持ちでいっぱいに
なります。ぐすん



しかしながら
末っ子が8才になった私は
そろそろ《死》への憎悪も薄れてきた
ように思います。
それは『そろそろ私がいなくても
どうにかなるだろう。』という自信から
生まれるものだと思うの。
当然死にたくはないけれど、
これまでのように吐き気がするほど
《死》を憎いとは思わなくなり
再びいつの日か必ず来るものとして
許せるものに変わってきた気がしています。



やはりこういう感覚は理屈ではなくて
動物の直感として存在するものだろう
思います。



死への価値観も月日とともに変わるもの。
だからこそ余計に
何も《いま》じゃなくても
・・・って思ってしまう。えーん




個人的にはこれから
自分の子どもたちには
『お母さんがいなくても
特に問題ないよ手
って風に生きていって欲しいと思って
います。
だって《いつ死んでも大丈夫》って
思えないと生きているのも辛いでしょう??
死なないように生きるって
結構苦しいことだと思うのです。



側にいられることは尊いこと。
でも、人には心があるので
側にいなくてもその人を想えば
側にいるのと同じことだと思います。



無念の極みだとは思いますが
故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。