1549年フランシスコ・ザビエルによって九州に伝えられたキリスト教は、1587年の豊臣秀吉の「バテレン追放令」に始まり、徳川幕府、明治政府によって苦難の時代を味わいました。
当初の弾圧は京都に住む宣教師に対するもので一般の人々には緩やかなものでした。江戸幕府下では、「禁教令」は九州では厳しいものだったけれども、潜入宣教師による布教活動は東北地方まで及んでいたと言われています。
1596年、秀吉により12歳のルドビコ少年を含む26名のキリシタンが長崎で処刑されましたが、これは一般のキリシタンも巻き添えを食ったものの、京都のフランシスコ会の弾圧が第一の目的だったといわれています。
1612年、幕府直轄地に対して教会の破壊と布教禁止令が出されました。
1614年には高山右近等、主だったキリスト教徒がマニラ、マカオへ国外追放されました。
1619年家康没後、秀忠によってキリシタン弾圧は強められ、多くのキリシタンが殉教していきました。
1637年、「島原の乱」をきっかけに「踏み絵」等一般人への弾圧が強まってきたといわれています。
それでもキリシタンたちは信仰を隠したり、偽装棄教で幕末まで信仰を貫きました。
迫害当初、幕府は信徒たちを殉教させていましたが、彼らが信仰のために命を捨てることを恐れず、むしろ栄誉としたため、、棄教させることを目的にした拷問に方針を切り替えました。
信徒たちは信仰を捨てない限りいつまでも、火あぶり(遠火であぶっていく)、穴吊り(2mの穴に逆さまに吊るす)、雲仙地獄攻め(熱湯をかける)、竹鋸引き(竹で作った鈍い刃を体に当てて通行人に引かせる)など過酷な拷問を受け続けました。
1856年、幕府は貿易による利益を鑑み、外国人居留地のみ外国人の信仰の自由を認め、宣教師の来日も許可しました。
1864年、居留するフランス人のため、プチジャン神父が大浦天主堂を建立。その教会を見て潜伏していたキリシタンたちが姿を現し始めました。
1868年、文明開化を高らかに謳い、日米修好通商条約によって鎖国を解いた明治政府でありましたが、江戸幕府からの政策を継承し、「キリシタン邪宗門厳禁」としました。
浦上の人口の90%は隠れキリシタンだったといわれています。幕府の政策を引き継いだ明治政府は、250年間以上も信仰を貫いた彼らを捕らえ、流罪にし、厳しい拷問にかけました。
明治政府は神道国家を標榜し、天皇を神聖化するあまり、「人は皆平等」を唱えるキリスト教を弾圧したのではないかと言われています。日本駐在の各国公使たちからは人道に反するという激しい非難の声が上がったそうです。
明治4年、岩倉具視率いる使節団が不平等条約改正のため欧米に派遣されましたが、その時、各国でキリスト教徒迫害を強く抗議され、驚いたと伝えられています。メンバーは明治の元勲と称えられている木戸孝允(桂小五郎)、山口尚芳、伊藤博文、大久保利通たちでした。文明開化を声高らかに唱える彼らでしたが、他方、残虐な迫害を容認する信仰の自由も認められない愚策の人でもありました。岩倉使節団帰国後、世界の非難をかわすべく、明治6年、政府はようやくキリシタン弾圧に終止符を打つことになりました。キリシタン弾圧が通商貿易の障害になっていたからです。
長崎市外海地区出津の山間に「枯松神社」というのがあります。ここはキリシタン迫害当時、信徒たちが密かに集まり祈りを捧げた所です。見かけは仏教の祠のようですが、目立たないように十字架やマリア観音などが隠されており、ミサも行われていたものと思われます。
枯松神社から100m位下った所に、しゃがめば数人は隠れることができる大きな岩があります。現在「祈りの岩」と書かれた小さな標識が立っています。ここは信徒たちの「告解」の場として使われていたと聞いたことがあります。隠れキリシタンたちは、密かにこの岩陰で潜伏中の司祭と会っていたそうです。思えば、哀しい残念な胸の痛む遺跡ですが、外海の人々にとっては、残虐な迫害を辛抱強く耐え抜いた信仰告白を刻む栄誉ある遺跡でもあります。

