こんばんは。
先日、子供の参観に行って
疎外感を感じた、という話を書きましたが
自分の問題と、吃音の問題が
いっしょくたになっていた頃には
自分は吃音があるから
人に話しかけられないんだ、と思っていました。
子供を産んで公園デビューした頃のある日に
「今日もうまく話し出来なかった」と
主人に話そうとした時に
ふと
「あれ?私、どもらなかったら話しかけたんだろうか?」
と思って
答えは「NO」だったんですね。
そこでやっと
どもるから話しかけられないのではなく
話しかけないのは私自身が選択していたことだった、と気付きました。
もちろん、話に入っていこうとしなかったり
自分から話しかけにくかったりすることが
元々の自分の性質なのか
どもることでからかわれたり、笑われたりした結果
生まれたものなのか
それは分かりません。
「ニワトリが先か、ヒヨコが先か」的な感じもするし
自分の中でも深追いしたくない気持ちがあります。
でもそうやって、どもりのせいにしていたから
実は自分自身の問題だ、と気付いた時に
とてもショックでした。
周りと仲良くしたい、という気持ちと
なかなか人と打ち解けられない、という自分の性質とのギャップが
吃音のせいにできない分
「自分の性格が悪いからだ」と
自分を責める材料に繫がり、苦しかったです。
今でこそ、その時期は乗り越えたかな、と
自分では思っていますが
結構、長い間苦しんでいました。
けれど、そうやって
自分自身のことと、吃音のことを
明確に区別できたからこそ
自分のことについて
深く考えることができたので
決して無駄な経験ではなかったと思います。
あまり何回もしたい体験ではありませんが(^_^;)
この間、所属している(といっても、最近ほぼ幽霊会員ですが・・・)
吃音教室の会報に
とても心惹かれる一文があったので
それをご紹介して今日は終わりたいと思います。
(以下抜粋)
「もし社会の風潮が、吃音というのは美しくてチャーミングな話し方だという風潮だったら、皆さんが吃音で悩むことなんてないと思います。
皆さんは吃音そのものに悩んでいるわけではない。人と関わるときにどう影響するかという世間的なカネアイとか、そういうところで悩んでいる。吃音そのもので悩んでいるわけでない。人の評価で悩んでいるのです。
だからといって私は社会の評価が間違っているから、少しでも受け止め方を正しくして、吃音を正しく理解してもらいましょうという話をしようとしているわけではないです。
吃音の問題が吃音の問題として成立するより、もっと深い地盤を我々は生きているのではないかということを伝えたいのです。
吃音の問題を考えることは、人間のあらゆる問題、悩みに通じているということを、私は言いたいのです。」
(以上)
これは外部講師の方のお話のほんの一部ですが
本当にその通りだと思います。