再び梨木香歩さんの著書の感想文です。

この本を選んだのは、「家守綺譚」で、トルコに留学中の村田の話が出てきて、もしや「村田エフェンディ滞土録」の村田のことかしら?と思って読んだら、まさしくその『村田』でした。
ちなみに、「村田エフェンディ滞土録」にも、「家守綺譚」の高堂と綿貫が登場します。綿貫の発言で妙に気になったものがあったので、後でご紹介を。

「村田エフェンディ滞土録」は、タイトルのそのままで、日本人の村田青年がトルコ留学をした際の様子を書いたものです。
内容は、下宿先の英国女主人ディクソン夫人、使用人のムハンマド、下宿人のオットー(ドイツ人)とディミィトリス(ギリシャ人)と村田が、下宿先でいろいろなことを繰り広げ、学び考え感じていき、有意義な時間を過ごします。
その後、村田は日本へ帰還することになり、またトルコの政情や第一次世界対戦により、仲間たちも下宿先を旅立ちそれぞれの信念に従って行動していく内容です。

この文庫本の裏表紙に、『爽やかな笑いと真摯な祈りに満ちた、永遠の名作青春文学』と解説がありましたが、まさにそのとおりで、真摯に祈らずにはいられませんでした。
シリア内戦で世界が騒がしくなっているこのタイミングで、この本を読んだことは、ただの偶然なのだろうか?とふと疑問に感じ、争いのない平和な世界のために、ただただ祈りたい気分です。

作中の中で、ディミィトリス(ギリシャ人)とある人の会話が、印象に残りました。
長いですが、引用します。

『人の世は成熟し退廃する、それを繰り返してゆくだけなのだろうかと。
その人はこう答えた。「ええ、いつまでも繰り返すでしょう。でもその度に、新しい何かが生まれる。それがまた滅びるにしても、少しずつ少しずつ、その型も変化してゆくでしょう。全く同じように見えていてもその中で何かが消え去り何かが生まれている。そうでなければ何故繰り返すのでしょう。繰り返す余地があるからです。人は過ちを繰り返す。繰り返すことで何度も何度も学ばねばならない。人が繰り返さなくなったとき、それは全ての終焉です」と。』

『全ての終焉』には、二通りの意味がある気がします。1つは全てを学び終えた時。もう1つは、進化向上を止めてしまった時。

個人的には、全てを学び終えた後に訪れる『全ての終焉』であることを望んでいます。

それにしても、人間は何度も戦争し、その度に多くの犠牲者を生み出し、それがいかに悲惨なことであるかを何度も何度も学んでいるはずに、まだ繰り返すのでしょうか。
繰り返す余地があるというのなら、これからどれだけ繰り返し血を流せば『全ての終焉』が来るのでしょうね。


「家守綺譚」の綿貫の妙に気になった台詞は、
『歴史というのは物に籠る気配や思いの集積なのだよ、結局のところ。』。

意味深ですね。なんだか妙に上から目線の気もしますが(笑)。

その台詞を受けて、村田が物語の最後に吐露する心情があるのですが、読み終わった後、思わずため息をついてしまいました。

『・・・国とは、一体何なのだろう、と思う。
わたしは彼らに連なる者であり、彼らはまた、私に連なる者達であった。彼らは、全ての主義主張を超え、民族をも越え、なお、遥かに、かけがえのない友垣であった。思いの集積が物に宿るとすれば、私達の友情もまた、何かに籠り、国境を知らない大地のどこかに、密やかに眠っているのだろうか。そしていつか、目覚めた後の世で、その思い出を語り始めるのであろうか。歴史に残ることもなく、誰も知る者のない、忘れ去られた悲喜こもごもを。』

歴史の遺物は、その当時の文化や生活の様子を伝えるものであると同時に、その当時、私たちと同じように生きていた証でもあります。
物がその思い出を語り始めるかどうかは別として、その当時生きていた人たちがおり、何世代に渡って成熟し退廃する世界を繰り返し生きていることに、感慨深い思いがします。

久しぶりに、読後、物思いに耽りました。小説の登場人物がフィクションだと知りながらも、彼らは人生を全うしたのだろうか、幸せだったのだろうか、と想いを馳せながら。

ああ、やはり梨木香歩作品はいいですね。イチオシですラブラブ